西原借款

西原借款

西原借款

日本の第一次大戦の参戦は大隈重信=加藤高明内閣によって推進されたが、元老の山縣有朋は加藤の自分に楯突く姿勢に不満であった。これは一面、加藤の親英姿勢に不安を感じ、若い頃のドイツへの郷愁が招いたものであった。また、当初、日本の参戦に消極的とも思える姿勢を示しながら、長期戦になると、西部戦線または東部戦線への派兵を懇請するなどのイギリスの「現金な態度」に幻滅したこともあった。

寺内内閣の成立と援段政策

寺内正毅(1852−1919)
長州藩士宇多田正輔の三男。軍政畑を歩み、1898年初代教育総監。陸大校長のあと桂内閣で陸相。1910年、初代朝鮮総督。1916年元帥となり、同年10月首相となる。援段政策といわれる北洋軍閥支持方針を実行した。1918年米騒動により退陣したが、最後の超然内閣といわれた。長男の寿一も陸軍元帥で太平洋戦争終決時、南方軍総司令官。

こうなると、連合国への協力としては人口の多い中国を連合国にたって参戦させることが外交目標となった。だが、大隈内閣の基本政策は中国については無関心の域を出なかった。

ところが後藤新平と西原亀二は「中国に暗躍する『志士』の暴状を訴え、それを黙認する大隈内閣」というスキャンダルをデッチ上げ、貴族院で問題とした。大隈内閣は倒れた。山縣は大隈の加藤を後継首相にしたいとの希望をけり、長州閥の寺内正毅を首相に推挙した。寺内内閣は「最後の藩閥内閣」「超然内閣」と呼ばれた。

寺内は大隈内閣の対中無関心を改め、極端な宥和方針をとろうとした。外相の本野一郎は、「中国の独立と領土保全」「中国への内政不干渉」を第38議会で宣言した。

ところがこれでは「宥和」にはならない。寺内は閣議に諮ることなく蔵相の勝田主計・西原亀二と組んで、秘密裏に北京政権安徽派の段祺瑞と結託することが最良と決心した。西原は国内では他人を陥れるためにいかなる策略をも弄する男であったが、朝鮮・中国への外交方針は「徹底セル親善方針ニ仍リテ、四億万民衆ヲシテ我ト和合シ同化セシムルノ政策ヲ敢行」(西原の寺内への”諫言”)といった漫談のようなものだった。

要は「中国人に尽くすだけ尽くせば、日本に顔を向けてくれる」といった内容である。西原はさらに、張勲復辟事件のさい張勲を一時匿ったオランダと中国を紛糾させ、「中国に資金を提供し、中国に蘭印を占領させ、日本は2億円を中国に支払ってこれを買いうけ、関東州を返還し、南満州鉄道を返還する」と寺内に提案している。

このような愚かな男を近づけた寺内・後藤・勝田の責任は大きい。だが、西原の「中国に尽くす」の計は、郵便貯金・国営銀行などを利用して本当に実行されてしまった。

西原借款

借款の交渉は西原亀三(坂西利八郎が関与)と曹汝霖(北京政府財務部長官)との間で行なわれた。日本国内の窓口は大蔵省(勝田主計大臣・広瀬豊作次官・大内兵衛理財局員)と興銀(土方久徴)、台銀(桜井鉄太郎)、朝銀(美濃部俊吉)らである。日本人関係者は大正14年までに責任をとらされ、全員退職している。

また外務省と横浜正金銀行はこの借款に反対した。横浜正金はこの結果、満州と華北の政府出先との取引を妨害され事実上撤退を余儀なくされた。しかし今からみると、もっとも健全な判断をしたことになる。

内容は現金供与1億4500万円、武器供与3208万円、合計1億7708万円である。これがいかに巨額であるかは、日清戦争の賠償金が2億3000万円であることからわかる。

内訳は

@臨時軍事費特別会計5000万円余・・・武器供与(3208万円)が中心
A大蔵省預金部(交通銀行借款)2000万円
B興業銀行・朝鮮銀行・台湾銀行1億円・・・電話・鉄道借款

であって、@は参戦借款ともいわれ、じっさいに参戦軍(3個師団/辺防軍)編成に使われた。武器供与とは国有財産である武器を、参戦軍に引き渡したものだが、役所の単年度会計のため、各武器に帳簿価格はなく実態は不明である。

安直戦争

Aについていえば、第一次交通借款500万円だけが返還された。大蔵省預金部とは、明治18年(1885)太政官布告を根拠とする行政内部の規則にもとづくものであったが、その運用する資金が預金部資金と呼ばれるようになったもので、肥大化の一途をたどった。西原借款貸し倒れの反省から、大正14年(1925)に預金部預金法が制定され、法律の裏づけをもつとともに、運用について、大幅な制限が設けられた。戦後はGHQの指導により、運用は国債・地方債に制限された。

昭和26年(1951)資金運用部資金法が施行され、政府の特別会計の余剰金などは全て資金運用部に預託することが義務づけられた。そして、郵便貯金と公的年金が運用資金の2本柱となった。それでも運用範囲は公的セクターに限定された。「意識下では西原借款のトラウマを引きずっていたのかもしれない」(『諸君』2005年12月号、『構造改革「誤解」論にモノ申す』尾崎護)。

交通銀行とは、清国時代の1907年に、外国からの借款で建設された鉄道を買い取る目的で設立され、中国銀行と並ぶ、二大発券銀行であった。日本側は交通銀行を日中合弁としたい希望があったとされる。

Bについては、ほぼ全額が貸し倒れた。ただし興銀・台湾銀・朝鮮銀の3行は借款について日本政府から債務保証念書をとっていた(国会の承認はない)。文言は「中華民国政府において本前貸金の利息支払に支障なき様兼て政府において御配慮相成度万一支障を生じたる場合には政府は督促の交渉をせられ結局銀行の損失とならざる様相当の御考慮願度事」である。

勝田蔵相(朝鮮銀行の後身である日本不動産銀行の設立に参画した勝田龍夫の父)は借款を実施したとき、将来相当の貸し倒れが見込まれるのを承知していた形跡がある。もちろん、この借款が実施されたとき「秘密借款」と呼ばれ国民には知らされなかった。

勝田龍夫は自著で、この借款について「私の第一の関心は、ー略ー今後のわが国の対外援助のあり方にあるー略ー」(『中国借款と勝田主計』)と書き、断言はしないが、現在のODAのような印象を与えようとしている。西原借款は断じて「援助」「ODA」ではなく、寺内・勝田による国庫金の私的流用または横領である。

最大の問題は、議会承認を必要としない特別会計と国営銀行資金を使用したことである。このような方法で「援助」がなされては絶対にならない。

国民負担

大正14年(1925)、台湾銀行と朝鮮銀行は経営不振に陥り、日本興業銀行債(当時は政府保証であった)は支払い不能の状態になった。浜口雄幸蔵相は、この3行の経理と混交状態にあった臨時国庫証券特別会計(勝田によってつくられ、回収不能になった帝政ロシアと中国向け債権を国庫で逐次買収していった)が利払い不能になったため、廃止を決めた。

方法は債権・債務を全て一般会計で引き継ぐことであった。すなわち、3行および特別会計の貸し倒れ損失は税金すなわち国民負担となったのである。

返済の情況について昭和元年(1926)2月3日、浜口蔵相は次のように国会答弁している。

「上記1億4500万円の借款の経緯をみまするに、借款元本の償還期限の到来したものがありまするけれども、一つとして償還を受けたることなく、また利子につきましても現金の受け入れのありましたのはごく小部分、しかもそれは主として借款資源の一部を振替充当したものであります。すなわち大部分の利子は延滞を重ねまして、あるいはこれを利払い借款として書き換え整理をしますなど、姑息の手段を講じて今日に及んだ次第であります」

1928年(昭和3年)、北伐を完成させた国民党政府は全国経済会議と財政会議で内外債務整理の方針をたて、北京政府の債務を一部継承することを宣言した。ただし「賄選による総統の下にある北京政府の借りた外債に対し、償還の責任を負わない」として、西原借款を債務継承から除外、不払いを公言した。

外務省がこれについて、どのような交渉を行なったかはっきりしない。ただしリットン調査団に不満を訴えている。債務者や共同債権者に不満をいわず、第三国調査団に何かいっても意味がない。外務省は国民の税金を無駄に使うことは考えるが、回収など任務分掌にないのである。

朝鮮銀行は戦後、日本不動産銀行、日本債券信用銀行を経て先年倒産した。台湾銀行は消滅し、興業銀行も近時同様の運命を辿った。銀行の外国への貸し倒れはなんらかの形で内国民である預金者の負担になる。融資団に加わらなかった外国為替専門銀行であった宮中出資の横浜正金銀行は戦後東京銀行となり現在三菱UFJ銀行となり現在に至っている。

西原亀三(1873〜1954)
京都府天田郡雲原村で生まれる。戸数160戸の寒村。富農の家に生まれたが、小学校(当時8年)卒業後郷里を出奔し、職を転々とする。日清戦争終了のころ、「天下の糸平」こと薩摩治平に30万円の出資を得て、福知山煉瓦製造支配人、その後舞鶴軍港工事に関係した。日露戦争中の1904年、陸羯南の知己を得て、朝鮮に渡り共益社を創設した。事業目的は日本綿の朝鮮への輸出だった。この当時でも朝鮮の綿布輸入は日本からよりもイギリスからの方が多く、日本製品が上回るのは第一次大戦が勃発してからである。

西原の寺内正毅への意見である。「日本人は朝鮮人といえば、うそつきで信用できないように思っているが、それは官吏や両班にあることで、一般の国民性としては、決してそのようなものではない。朝鮮は箕子建国以来国家として独立の歴史をもったことがない。したがって国の威厳をたもつだけの武力をもったことがなく、つねに他国から脅かされ通している。こういう弱小国の官吏や人権保護の不十分な国で、貴族として名誉と富を守っていこうとする両班が、おのれを保っていく道はただ巧言令色以外になく、自然官吏と両班はともに上手なうそつきで、全然信用できない。これに反し私の日頃接触している布木商というのは、商人として一大勢力をなしている常民であるが、これは信をもってたち、決してうそをいわぬ」。戦後、『夢の七十余年』という回想録を残し、「パリ講和会議は日中正面衝突をし、(中略)たちまち百年の仇敵となってしまった。日本は列国から侵略者としての烙印をおされ(中略)その後の日本ではこれを跳ね返す準備が一生懸命に進められた。日本今日の悲劇は仲良くすべき中国と喧嘩してしまった当然の報いである」と書いている。

西原亀三は、寺内正毅の朝鮮総督時代、知己を得た。本人は借款成立のさいでも、不当なコミッション(興銀以下3行から3万円を除外)をうけとらなかったと主張している。だが後になり、中国側から1件につき5万円程度の受領証が発見されており、額面通り受け取れない。寺内退陣後は国策研究会設立。大アジア主義者・陸軍長州閥として宇垣流産内閣に暗躍。1937年以降郷里に戻り雲原村村長となり1948年まで続けた。

また、中国側の使途であるが、鉄道や電話が建設されたことはなく、軍閥の小ボスに配分されて終わりだったようである。ある中国人の言では、西原借款で北京政府の国庫に入ったのは860万円にすぎなかったという。

寺内の失敗の原因は中国に関心をもったことだといえば、いいすぎだろうか?日本興業銀行の岡部三郎は「日支親善、経済提携、共存共栄は日本の国論であるが、決して支那の国論であるとは思えない、生来辞令に巧みなる支那人士の御座なりの御世辞に過ぎないのではあるまいか。この点は西原借款がその効果において惨敗をとっている重大なる原因の一つであると同時に、今後の我対支政策の根本において我等の深く留意を要する肝要なものである」と書いた(昭和6年2月、『西原借款資料研究』)



北村敬直編『夢の七十余年』 平凡社 1965
勝田龍夫『中国借款と勝田主計』ダイヤモンド社 1972
鈴木武雄監修『西原借款資料研究』東京大学出版会 1972

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