露仏同盟


露仏同盟(軍事協定)は三国同盟に対抗して1892年8月18日に締結された。以下がその全文であるが、その短く単純なことに驚くだろう。末尾の秘密遵守義務に見られる通り、これは完全な秘密条約で、当時フランスでも外交官と軍部以外には知らされていなかった。

全文は1918年12月ボルシェビキの手によって公開された。ただ現在でも枢要となる参謀本部間の打ち合わせの内容は公開されていない。これはロシアでは軍関係の文書が白軍に落ち廃棄されたためと、フランスは1941年5月ヒトラーのパリ占領を目前にして、外務省(ケードルセー)が全ての秘密文書を焼却したためである。

フランス外交官は、この条約を外交の芸術(アート)だと称した。当時のヨーロッパで最も政治体制が異なった国同士の軍事同盟であるから、驚くべきことなのだろう。確かに22年間ヨーロッパの平和を守ったかもしれない。しかし、これがドイツのシュリーフェンプラン策定の動機となったとも言える。もちろん、同盟がなければフランスはもっと早期にドイツに侵攻されていたかもしれない。


フランスとロシアは平和を維持すると言う共通の希望と、防衛戦争、すなわち、三国同盟諸国による両国への挑発によらざる軍事攻撃への対処として以下の措置を約諾した。

  • 1.フランスがドイツまたはドイツに支援されたイタリーに攻撃を受けた際、ロシアは全力をもってドイツを攻撃する。ロシアがドイツまたはドイツに支援されたオーストリアに攻撃を受けた際フランスは全力をもってドイツを攻撃する。
  • 2.もし、三国同盟の軍またはそのいずれかの国の軍が動員するとの報に接した場合、事前の了解を必要とせず、フランスまたはロシアは直ちにまた同時に総動員し、縁辺部に展開する。
  • 3.ドイツに対抗する兵力はフランスにおいては130万人、ロシアにおいては70万人または80万人とする。これらの兵員は、ドイツが同時に東西両面戦を余儀なくされるように、配置されねばならない。
  • 4.両国の参謀本部は、前項を準備また実行するために常に協力し協議するものとする。平時においても三国同盟が所有し、また予想される軍事力の全部の情報について交換する。戦時における情報交換については事前にこれを研究し改善する。
  • 5.フランスとロシアは分離和平を行わない。
  • 6.この条約は三国同盟が存続する限り継続される。
  • 7.上記の項目については厳重に秘密とされる。

公使、外務大臣、参謀総長Obrutchev、侍従武官長、師団長 de Boisdeffre、外務参事官が署名した。

下線部分は挑発によらざる攻撃による戦争(unprovoked defensive war)と言う19世紀の外交用語を表明したもので、当然のものとされた。すなわち、相手が勝手に仕掛けた戦争には、応じる義務はないことを示したものである。これは一方の意思で共同戦争が開始されることを避けるためであり自動参戦条項の否認でもある。ただ自分からの国境、軍事境界線を越えた攻撃、他国軍の衛戍地への攻撃などは疑いなく挑発だが、動員の実施となると解釈が難しい。これが第1次大戦の原因論を複雑にさせている。またここから侵略(aggression)と言う概念が発生した。

わが国のこの条約の訳文は日本法令版、平凡社版の世界史史料などすべてこれが脱落している。ボルシェビキ公表時、当時の外務省の役人が訳出に失敗したためである。防衛戦争と侵略戦争の区別についての知識が乏しかったためだろう。これは日独同盟締結時に複雑な影を落とす。

また、この19世紀概念は第2次大戦まで残った。第1次大戦では各国とも必死となって侵略者の名前を被せられることを避けようとした。これが、動員か国境突破、どちらが開戦要因か?と言う論争を呼んだ。ヒトラーがポーランド侵攻の際、謀略を組んだのもこれである。ただし、真珠湾攻撃によりこの概念は無意味となった。航空兵力による地上設備を攻撃する方法で開戦できることが立証されたためである。これは奇襲による戦争開始という概念の始まりで、第2次大戦後の軍備に複雑な影響を与えた。

この条約は極めて双務的だった。両方とも対等という軍事同盟は実は少ない。通常は大国が小国の援助する義務を持つのが一般的である。おそらく日、英、米、独とも日独同盟を除いて完全に平等な平時の軍事(攻守)同盟を締結したことはないのではないか。それでも日独同盟にはこの条約にみられる共同作戦の条項が存在しない。

この同盟にニコライ二世は、当初、熱心でなかった。アレクサンダー三世はロシアの安全保障はドイツとの対抗関係にあるとみたが、ニコライは国の集団安全保障というような、外交手段による戦争抑止策に興味を示さなかった。抑止力よりも実戦力が鍵とみなし、仮想敵がなければ軍事バランス強いては戦争を考えることができなかった。ロシア人独特のものとして、不凍港の獲得がある。この気持ちはニコライ二世も共通しており、とくに極東口、ダーダネルス・ボスフォラス海峡問題にロシアの利益があると判断した。

ただ、それから先の海上安全が計られねば、港だけでは海上交通路確保はできない。つまり、ロシアはトルコ、日本、スェーデンと友好関係になければすぐさま危機に陥る。ところがこの三国はあまりロシアを必要としない。この打開をヨーロッパ諸国との友好関係で計ろうとしたのがアレクサンダー三世だとすれば、直接武力行使を考えたのがニコライ二世である。

これ以降毎年両国参謀本部は作戦計画の細部、動員のスピード、鉄道の設置の細目を打ち合わせた。これは三国同盟では見られない。参謀本部の打ち合わせは1913年8月まで8回行われたという。

この条約は1年半にわたって細目がつめられたもので、ペテルブルグで署名された。このため署名した人物の最高位はロシアのギースル外相で、フランス側は派遣された軍事アタッシェと公使だけである。

露仏同盟は誰が推進したか?

普通国家間の条約では締結に努力した人物の名前が残るものである。ところが20世紀を決めたこの条約には外交官の名前が登場しない。これはなぜだろうか?

理由の一つは、ロシア側の推進者がアレクサンダー三世だったことである。ニコライ二世の父君であるが、交渉力も理解力もある人物だったとされる。交渉のきっかけは、アレクサンダー三世の命令でロシアが1891年3月、フランスのリボー外相に、同盟の提案をしたことに始まる。

再保障条約

1891年8月、ロシア大使モーレンハイムとリボーは攻守同盟を検討することで合意した。そして両国の参謀本部を中心に1年かけてまとめられたのが、上にある軍事協定である。

ところが、ここで交渉は中断してしまい両国とも批准にためらいを見せる。これはどうしてだろうか。

実はこの時フランスでは、パナマスキャンダルが発生していた。この事件は金銭をめぐるもので根が深いものではない。民主主義国家では、この種の問題がよく起き、政権が不安定に見える。もしこれが独裁国家であったり、絶対王政だとすると、事件の発生自体が政体にとり致命傷たりうる。ところが、フランスのような議員内閣制にもとづく民主主義(第3共和制)だと、建設相が交代して終了であり大きな問題にならない。第3共和制の崩壊はヒトラーの侵攻によるものである。

この時点で、共和制の利点は認識されず、アレクサンダーは様子見を計ったのだ。この中断を打開したのは1893年12月大統領兼外相となったペリエール(右派:政権は6ヶ月しかもたなかった)で、直ちに駐露フランス大使モンテベロに直接皇帝に面会して真意を測るよう命令した。そして、その時内閣官房長官としてのちの大使パレオログがこの条約検討過程を説明しかつ命令に立ち会っている。

しかし皇帝は好意的にモンテベロに面会したが、条約に触れることは婉曲に避けた。モンテベロも追求しなかった。

しかし1894年1月1日突然「アレクサンダー皇帝がギースル外相に批准を命令した」との電信が、フランス外務省に入りこの世紀の条約は発効した。交渉開始以来2年4ヶ月かかったことになる。

誰が最も熱心に推進したか?現在パリのセーヌ川にかかる橋で最も美しいと言われるのはアレクサンダー三世橋である。この橋の南側にフランス外務省(ケードルセー)が存在する。回答は明らかだろう。


フランス外務省(ケードルセー)
セーヌ川の反対南側から見た。

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