ゼークト、ハンス フォン

Seeckt, Johannes Friedrich Leopold von
(1866−1936)

ドイツの軍人;ワイマール共和国の参謀総長

スフィンクスとあだなされ、寡黙で有名だった。シュレスウィヒで生まれた。父もプロイセンの軍人で将軍だった。文学青年で士官学校在学中にアビトゥア(大学入学資格試験)にも通過した秀才だった。卒業後近衛アレクサンダー擲弾兵連隊に入隊ののち順調に昇進、30歳で陸軍大学を卒業した。

開戦時には第3軍団参謀長だったがマルヌ会戦で敗退しエーヌ川まで撤退している。その後マッケンゼンの第11軍の参謀長となり、ゴルリッツ突破戦を企画した。そのままマッケンゼンについてバルカンを転戦した。

ブルシロフ攻勢でオーストリア軍に危機が迫り、急遽フランツァーバルティンの第7軍の参謀長、カール大公軍集団の参謀長、ヨセフ大公軍の参謀長を歴任した。その後ルーマニア侵攻のため第9軍(ファルケンハイン)の参謀長となり、ルーマニア戦を実質企画した。

1917年2月トルコ軍の参謀総長の就任した。しかしエンベルと戦略の食い違いが生じ、この職はうまくいったとはいえない。トルコ軍の休戦のあとケーニヒスベルグに派遣され東部軍の撤収を成功させ、ベルサイユ条約の署名にも軍代表で参加した。1919年7月グレーナーのあとをついで兵站総監その後参謀総長(隊務局長)に就任した。

ゼークトはワイマール共和国の影の支配者で、実質的に軍事と内政(治安維持)における大統領・首相への影響力は圧倒的だった。この時の有名な言葉は「ドイツでは私以外に反乱を企てることができるものはおりません。そして私は決してそのようなことをしないことを約束します。」というものだった。

ゼークトは機動戦での作戦を重んじるルーデンドルフやグレーナーとは異なりファルケンハインやマッケンゼンに近く装備・火力・交通を重視した。その意味の戦略重視でソ連との秘密軍事協約にもとづく「黒い共和国軍計画」の推進者だった。そして欧州で一正面の防御作戦の実施に耐え得る軍の創設に努力した。

ラッパロ条約

その中味は現在に至るも詳細は不明であるが、参謀本部における打ち合せの段階では、連合軍がライン川を越えて攻勢に出た場合、エルベ川の線で防禦にまわり、赤軍の来着を待つという大胆なものであったらしい。

1923年フランス軍がルールに進駐最大の危機を迎えた。大統領のエーベルトは事実上ゼークトによる政権樹立を依頼したが、これを拒否左右両翼にたいする弾圧強化を進言した。しかし政治不関与とするにはあまりにもドイツをとりまく情勢は厳しく参謀本部(統帥部隊務局)の政治担当としてシュライヒャーを重用するに至った。ゼークトは軍の政治にたいする中立・独立というドイツ参謀本部の伝統に忠実なあまり、軍事計画のもつ必然的な外交との関係を整理するほど個人的な興味また力はなかったようだ。

フランス軍のルール進駐

1923年秋、ヒトラーのミュンヘン一揆と共産党のチューリンゲン蜂起を鎮圧した。

その意味では軍事全体を指導した最後のユンカーと言えるかもしれない。また再建ドイツ軍の士官学校の入学にはユンカーを優先させたともいう。

しかし自らも大統領立候補を支持したヒンデンブルグとはゴルリッツ突破戦以来の遺恨のせいかソリがあわず、ウィルヘルム皇太子閲兵事件を機に1926年参謀総長(統帥部長官)を退いた。

1930年ドイツ人民党の代議士となった。(右翼政党。ワイマール共和国は完全比例代表制)
ただこれも熱心な議員になったとは言い難い。しかし、党のスポークスマンとして国粋主義的、王党派的なつまらない言辞をはいた。そして1930年の大統領選挙ではヒンデンブルグでなくヒトラーを支持した。

ゼークトの著作は戦間期日本でも読まれたが、概して好評ではなかった。主張の要点は軍事においては公理とか定理を信じてはいけない、というものだった。とくにシュリーフェン以来ドイツ軍事学は包囲突破の機動戦しかなく、また概してハンニバルのカンネーの戦いに範を置いた。この発想がだめだと主張した。たぶんルーデンドルフとグレーナーへの批判が念頭にあるのだろう。旧陸軍は戦間期、試験に血道をあげていたからこの主張は困ったのではないか。試験となると帰納でないと採点できないから、公理定理を暗記応用できるほうが強い。しかし戦場では公理定理の裏をかかれると惨敗する。

一軍人の思想で「戦争は他の手段による政治の継続である、という言葉は現在では公理となっている。それゆえにこれは危険である。次のこともこれと同じくらい正しいのだ。戦争は政治の破産である、と。」と述べている。他のドイツ軍人からはなかなか聞けない言葉である。

ただ機動戦の観点では、機甲師団の創設に前向きでなかった。ヒトラーはさらに一歩先をゆく軍事指導者だったのかもしれない。

1933年から3年間蒋介石の軍事顧問をつとめた。その時上海地区に作られた防衛線はゼークトラインと呼ばれた。帰国後ベルリンで死亡した。
上海決戦



 
自伝;Gedanken Eines Soldaten und Zukunft des Reiches, 1935, Berlin
(邦訳) 『一軍人の思想』 篠田秀雄訳 岩波新書 1940(ただし将来の帝国の部分は収録されていない。これはドイツ側でも日本側でも検閲によるものではない。ドイツ語版でも現在収録されていない。著作は1929年に終了している。)
自著;Deutschland zwischen Ost und West(邦訳)『ドイツ国の基本的諸問題』斉藤栄治訳 育生社弘道閣  1943             
Moltke, ein Vorbild (邦訳)『モルトケ』 斉藤栄治訳 岩波書店 1943
von Rabenau, F., Hans von Seeckt Aus Meinen Leben Aus Seinen Leben, Berlin, 1949
Meiner-Welcher,Seeckt, Muenchen, 1967 

ゼークトとヒトラー
ゼークトの主張 
                                              
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