スコムリノフ、ウラディミール

Sukhomlinov、Vladimir Aleksandrovich
(1846−1926)

ロシアの将軍;開戦時の陸軍大臣

コウノ(現リトアニア カウナス)で生まれた。軍人家庭で育ち、士官学校卒業後保守的なグループに属するとみられていた。しかし1908年キエフ軍管区司令官からパリーチンのあと陸軍大臣となると、むしろ改革者として現れた。

ロシアの官僚制度のなかでは、常に競争者をたたき続けねばならないが、スコムリノフもそれを徹底して実行した。陸軍大臣は平時のロシアでは参謀総長より上位にあるが、スコムリノフは頻繁に上位者を交代させることにより参謀本部の弱体化を計った。

また佐官以上の人事を操ることにより、派閥を形成した。人事では歩兵連隊と砲兵大隊に出身階層の低い人物を登用し、貴族的な騎兵将校の怒りを買った。これが有能な人材登用だったのか、派閥目的だったのかいまだに議論が分かれるが、両方だったのではないかと思われる。

戦後ロシア軍人の回想では常に悪者として登場するため分が悪いが、もし日露戦争から第1次大戦の間、ロシア陸軍が改善されたとするなら、それはスコムリノフの功績である。少なくとも騎兵偏重から歩兵・砲兵中心に西ヨーロッパ諸国なみに転換したこと、動員におけるスピードを確保したことは認めてもよいのではないか。とくに砲兵を従来の要塞に固定したものと捉えず歩兵師団に野砲を配置し砲兵大隊をゆきわたらせたことは卓見である。ただし改革の徹底性には欠けていたが。

またスコムリノフは妻が若くまた浪費家であったため、常に公費を使い込んだとみられていたことも、評判を悪くした。ただ当時のロシアで軍人の汚職はなかば公然と行われていたことは事実で、スコムリノフはこの綱紀粛正に熱心でなかったようだ。第1次大戦が開始されると事情は一変した。

総司令官のニコライ大公はスコムリノフを毛嫌いし、遠ざけた。1915年6月1年経たずして解任され、不正のかどで、逮捕された。その後調査の対象とされ拘禁された。革命後も臨時政府は投獄を続けたが、奇妙なことにボルシェビキによって釈放された。赤軍の中枢メンバーにはスコムリノフの登用した人物が多かったためといわれる。その後ベルリンに1922年転居し回想録を書いた後死亡した。その回想録の献辞は不思議なことにウィルヘルム二世に捧げられている。



Agourtine,L., Le General Soukhomlinov, Clichy, 1951
回想録;Erinnerungen, Berlin, 1924

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