西園寺 公望

Saionji Kinmochi
Duke Saionji
(1849-1940)


パリ講和会議主席全権、公爵

徳大寺家の次男として生まれ、西園寺家を継ぐ。若くして倒幕を志し、山陰軍事総督に任じられた。朝命により1871年渡仏、コミューンで混乱したパリに下宿した。ソルボンヌ大学で法律を学ぶことを命ぜられていたが、政治学に興味が転じた。そしてたまたま下宿が一緒だったクレマンソーの急進主義に魅せられた。

クレマンソーの急進主義はサンシモンの哲学にもとづき、議会政治をもとに下層階級の生活改善を目指し結果として国権の増強を図るものだった。西園寺はフランス急進主義を日本で実現させることを決心した。

約9年間の欧州滞在を終え帰朝し報告したが、明治天皇は必ずしも喜ばなかった。西園寺は駐墺、駐独公使を命ぜられ再び渡欧した。

帰朝後、1900年自ら発起人として旧自由党の人々の流れを汲んで政友会を設立した。日露戦争後、桂太郎の藩閥政府と交代で政友会を代表する政党人として内閣を組織した。

1912年明治天皇は崩御の直前、首相指名の推薦を行う資格のあるものとして5人を元老に任命した。西園寺はそのうちの一人に選ばれた。そして1924年松方正義の死亡後は最後の元老と呼ばれるようになった。

西園寺の主張の根底は議会政治に根拠を置き、人権擁護と国権の拡張を図ろうとするものだった。1914年、政友会後継総裁の大隈重信を首相に推薦、初めての政党内閣を実現させた。日本はこの内閣のもとで第1次大戦に参戦することになる。

1918年、パリ講和会議が開催されると衆望は西園寺が主席全権となることを期待した。既に引退のつもりだった70歳の西園寺には重い任務だった。西園寺は講和会議に於いてはヨーロッパの安全保障が中心課題であり、アメリカと日本にとりそれにどのように取り組むのかが最も重大な課題だと相当早く認識したようである。しかし本国は山東半島問題などの近隣のささいな問題に集中しついに世界平和について理解することがなかった。

西園寺はクレマンソーと旧交を暖め、フランス急進主義を日本で実現させたことを報告して十分満足したように見える。

また山東問題などは、アメリカが不承認で臨んでも、大勢に影響がないことをパリ到着前からわかっていたようだ。またパリ講和会議の中心点、ドイツ問題の本質を早くから見抜いた数少ない日本の政治家だった。西園寺はドイツのようになってはいけない、日本はドイツの二の舞になると、その後も叫び続けた。この叫びは現在でも有効なのではないだろうか。世界を見ずに近隣に拘泥してはいけない。お山の大将となって得ることはない。

帰朝後、再三首相に擬せられたが固辞した。西園寺の基本は英仏の支持のもとで国権の伸張を図るものだったが、超国家主義者は常に君側の奸として暗殺を狙い続けた。実際は重臣を取り除いて、自分達が独裁をしたいだけなのだが。

西園寺は1932年10月、満州事変の決着がついた頃、次のように述べた。
「国家の前途をいかにすべきかということについて、爾来伊藤公始め自分達は東洋の盟主たる日本とか亜細亜モンロー主義とか、そんな狭い気持ちのものでなく、寧ろ世界の日本という点に着眼して来たのである。東洋の問題にしても、やはり英米と協調してこそ、その間におのずから解決しうるのである。亜細亜主義とか亜細亜モンロー主義とか言っているよりも、その方が遥かに解決の捷径である。もっと世界の大局に着眼して、国家の進むべき方向を考えねばならない。」

この発言は日本中が満州事変の結果で浮かれあがっていたときのものだ。現在でも公然と外交政策をアジアのリーダーとしての視点で考えるべきだと述べる公党に所属する代議士がいるとき考えさせられる言葉である。日本は大国(列強)であるかもしれないがアジアの盟主・リーダーではない。ドイツがヨーロッパの盟主でないのと同様である。

西園寺の識見は、若手陸海軍軍人・外交官などのものよりも、はるかに群を抜いていた。それにもかかわらずドイツをまねた社会主義や国家主義の粗暴な意見がまかり通る事を嘆いた。ただ西園寺の信奉したフランス急進主義・自由主義左派が政友会また戦後自由党の基礎であることも事実だ。

1940年12月死亡し国葬を以って遇された。その死の3ヶ月前、日本はドイツとの軍事同盟を締結した。




自伝:『西園寺公望自伝』小泉策太郎・木村毅編1949
:『陶庵公西園寺公望公伝』竹腰与三郎1930

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