ルプレヒト、バイエルン王太子

Rupprecht、Crown Prince of Bavaria
(1869−1951)

バイェルン王国王太子、ドイツの将軍
ルプレヒトはバイエルン王国ルードウィヒV世の長男として生まれ若くして帝王教育をうけた。主として軍事と法律を学んだようだが、開戦時には第6軍を率いる司令官として現れた。第6軍の担当正面はロレーヌであるが、そこはフランスのプラン17の作戦重点にあたる地区だった。

ルプレヒトはフランス軍の攻撃をよくかわしたが、その後シュリーフェンプランにはない攻勢姿勢をとった。しかし今度はフランス軍右翼がよく耐え攻勢に失敗した。その後ドイツ軍右翼の攻勢はマルヌ会戦で敗れ、短期的勝利の夢は潰え去った。

海岸への延翼運動ではイギリス軍正面を担当しファルケンハインの海岸への打通作戦、第1次イープル戦の指揮官となる。攻勢は多大の損害を出して失敗した。その後もイギリス軍正面を担当第2次イープル戦、ソンム戦等を担った。

防御に回った段階で指揮官としての才能をむしろ発揮し、数をたのんだイギリス軍の攻勢をことごとく跳ね返した。ソンム戦が終わった1916年末ごろから、ルーデンドルフ参謀本部に具体的に反対意見を具申し、戦争のコースを妥協による和平に切り替えることを要求した。

1918年カイザー戦の第1次攻勢(ミヒャエル)で先頭にたちある程度攻撃を成功させるが、イギリス第3軍(ビン)にまたしても阻まれた。ルプレヒトはルーデンドルフをドイツ最大のガンとみなし攻撃するが、プロイセン軍人に囲まれた参謀本部の受け入れるところとならなかった。休戦交渉が終了した段階でバイエリッヒアルプスにある私邸に引きこもり政治活動から距離を置いた。アイスナーの退位要求にも無言で応じたといわれる。

1920年代30年代では明確にヒトラー運動に反対し、一線を画した。第2次大戦中はイタリーに隠棲し、故地に帰還できたのは戦後だった。



回想録;Mein Kriegstagebuch, Munich, 1929
Sendtner, K., Rupprecht von Wittelsbach, Kronprinz von Bayern, Munchen, 1954

フロンティアの戦いに戻る
マルヌ会戦に戻る
第2次イープル戦に戻る
ソンムの戦いに戻る
カイザー戦に戻る
帝国の崩壊と革命とに戻る