ポチョレック、 オスカー

Potiorek, Oskar
(1853-1931)


オーストリアの軍人;チェコ人で軍人家庭に生まれた。

もともとは地位が約束された軍人だったが、1906年、コンラートと参謀総長の地位を争い敗れた。結果として、ボスニア総督兼軍司令官となった。

サラェボ事件の総責任者だった。事前に不穏な内報がウイーンとベオグラード双方からもたらされたのもかかわらず、十分な警戒態勢を作ることを怠った。当然地元警察250名では不足した。しかしフェルディナンド大公の行事が軍隊の閲兵にあるため、警察に警戒と事前の注意を与えることをしなかった。ここにポチョレックの官僚的な体質が出ている。

だが奇妙なことにサラェボ事件について責任が追求されることがなかった。開戦とともにバルカン方面軍の司令官となり、セルビア攻撃を指揮した。3度にわたるドリナ川渡河作戦を実施し、3度にわたり渡河は成功させた。しかしその後の戦果拡大に失敗した。セルビア軍の戦略総予備の配置をいつも過小評価するか、所在の確認を誤った。

とくに9月ヤダール渓谷でセルビア軍の穿間突撃を喫し、大敗した。この作戦期間中25万人に及ぶ損害を受け、オーストリア軍は常備軍の骨格をうしなった。

この渡河作戦中数量でオーストリア軍が劣っていた事実は見逃せない。元来攻撃を控えるべきかスピードを落とすべきか判断が難しい。しかしバルカン作戦はガリシアでの対露作戦より従でありまたセルビア軍は孤軍であり攻勢には出られないから、待つことはできたのではないか。翌年マッケンゼンがドイツ軍を率いて来援しブルガリアの参戦に助けられたが、短期間でセルビアを粉砕している。

1914年12月免職された。その後公職につかず、クラーゲンフルトで死亡。


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