ペタン、アンリ

Petain、Henri Philippe Benoni Omer Joseph
(1856-1951)



フランスの将軍 政治家;大戦後期のフランスの名将

コーシーアラトゥールで生まれた。出生のすぐあと両親ともに死亡し、叔父に育てられた。カトリック系の学校にあきたらず、サンシール士官学校を卒業した。その後の昇進は順調でなく、開戦時は定年直前の大佐だった。陸軍大学の講師として、歩兵戦術を講義し、すでに単純な正面攻撃ではだめなことを説いた。このため、攻勢一辺倒の上層部から評価されなかったのだろう。しかしマルヌ会戦の直前にジョフルの手で、旅団長・師団長・(第33)軍団長と三段階昇進した。

1916年ベルダン戦の総指揮をまかされた。「敵は通さない」一言と、兵站の重視や兵士のローテーションといった従来のフランス軍にはない手法で、最終的に防衛を成功させた。その後ニベル攻勢の失敗後、参謀総長に就任した。ニベル攻勢直後の軍内部の反乱を鎮め、「アメリカ人とタンクを待とう」といって防御姿勢に転じた。

1918年カイザー戦を防いだが、連合軍の最高指揮官にはフォシュが就任し、作戦は以降フォシュの手でたてられた。最終攻勢でしばしばフォシュと対立したが、フランス軍はペタンの歩兵戦術に従い、最終的にドイツ軍を打倒した。ペタンは、第1次大戦で最も早く近代戦の本質をつかんだ将軍のうちの一人だった。

ペタンの言葉で有名なものは、「私の信頼するものは愛と歩兵だ。」である。周囲が激しく批判するなかで、歩兵に火砲が命中すれば死ぬと言い切った。その攻勢防御ー攻勢移転と言う戦術は、フランス陸軍に最後の勝利をもたらしたことを忘れてはならないだろう。

しかし内燃機関の発達は、わずか20年で、ペタンの歩兵戦術を無効にしてしまった。ベルダンでいち早くトラック輸送による兵站を実施したのだが・・・。ペタンはタンクの有用性を理解していたがその中身は装甲と搭載する砲についてだった。すなわち、その速度のもたらす効果について、留意することができなかった。戦間期、エティエンヌやドゴールは機甲師団の創設を説いた。ペタンは受け入れることがなかった。

ただ、機甲師団(戦車プラス装甲車・自走砲)またはソ連式の戦車軍団が絶対の編制であったわけではない。地形・気候により、しばしば戦車は無力化されている。また、全滅覚悟の対戦車砲をもった歩兵はしばしば機甲師団を阻止している。戦場の主人公はライフルを持つ歩兵であることは、21世紀でも変わらないだろう。

第2次大戦勃発時はスペイン大使だったが、翌年5月の電撃戦による敗北で急遽呼び戻され、陸軍省副長官となりパリのオープンシティ化(事実上の降伏)を推進、その後首相としてフランスの抵抗を断念させた。

敗者としての戦争の中止も、歩兵戦術の天才にとり手段だったのだろうか。ビシー政権の首班となり戦後最大の対敵協力者として、死刑が宣告された。しかしドゴールによって無期禁固に減刑され流刑先のユー島で生涯を終えた。

遺言で、ベルダンで戦った同志ととも埋葬されることを希望したがかなえられず、島の共同墓地に埋められた。1980年ミッテラン大統領はこの墓に献花した。



回想録;Verdan, London, 1930
Griffiths, R., Petan; a biography of Marshal Philippe Petan of Vichy, New York, 1972
Lottman, H.R., Petain; Hero or Traiter, the Untold Story, New York, 1985
Ryan, S., Petain the Soldier, London, 1969

ベルダン戦に戻る
ニベル攻勢に戻る
連合国最終攻勢(前編)に戻る
ペタンの攻勢防御(縦深陣地戦術)