パーシング、ジョン

Persing、John Joseph
(1860−1948)

アメリカの将軍;アメリカ遠征軍(AEF)の司令官

ウエストポイント士官学校卒業。第1次大戦前の軍歴ははなばなしいものがあった。騎兵畑を歩み、インデイアン戦争、黒人騎兵隊を率いてのキューバ内戦(この活躍からブラックジャックとあだ名がついた。)、フィリピン暴動、日露戦争の観戦武官、1916年のメキシコ遠征に参画、従軍した。

1917年5月アメリカ遠征軍の司令官に任命された。着任早々から、独自の指揮権を保持することに努め、とくにイギリスの将軍と対立した。1917年は装備の点検と訓練を重視し、前線での活動は消極的だった。このためクレマンソーはアメリカ政府に更迭を要求したほどだった。米軍が前線配置になったのはようやく1918年5月になってからだった。

パーシングはおそらく米軍の登場を印象的にするため、むしろこの時期を選んだといわれる。それからは英仏軍の総予備の予備として使われたため、ドイツ軍の攻勢の最終局面で登場し最後の進出を食い止めるという派手な役回りを演じることになる。とくにシャトーチェリーの最先端部での防御戦はルーデンドルフに絶望感をいだかせるのに役立ったようである。

その後サンミエル突起部でもフランス軍が4年かかって成功しなかった攻撃を3日で終わらせ突起を解消させた。その後最終攻勢第2期以降も順調な前進ぶりだった。ただし米軍の攻勢はそれまでの戦訓を生かせず、比率的に重い被害を受けたとの批判もある。これは訓練によるものか、作戦によるものか、または経験不足かわからない。不思議なことだが新大陸からきた兵、アメリカ・カナダ・アンザックはいずれも損害率が高い。

休戦の交渉時パーシングはドイツ軍の無条件降伏を主張し周囲を驚かせた。休戦後ラインラントへの進駐を実施、ドイツ国内のあまりの平穏と戦争から惨禍をうけていないことに驚愕したともいう。戦後は「諸軍隊の将軍」という称号をうけた。

パーシングは多くのアメリカの将軍と同様に決して武辺一つの人間でなく数多くの人間的優しさをみせた。

クリーブランド平原商業紙(7月、1918年)に、パーシングが毒ガスによる失明者を見舞ったときのこととして次の記事がある。

パーシングはジミーという名の兵士のベッドに寄った。ジミーは失明し前日手術をうけたばかりだった。ジミーは身を起こし、敬礼できなくて申し訳ありません、と言った。パーシングは近づいて軽く頭を抱きかかえ、敬礼しなければいけないのは私だ、と叫んだ。



回顧録; My Experiences in the World War, 2vol. NewYork, 1931
Smyth,D., General of the Armies, Mloomington, 1986
; Guerilla Warrior: The Early Life of Jobn J. Pershing, New York, 1973

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