ルーデンドルフ、エーリッヒ

Ludendorff, Erich
(1865-1937)

ドイツの将軍;大戦末期ドイツ軍事独裁の中心人物

西プロイセン(ポーゼン付近Kruszewnia)生まれ。父は農村の商人で、ユンカーではない。

12歳で陸軍幼年学校に入り、そのままベルリンのリヒターフェルトにある士官学校(Hauptkadettenschule当時王国別に士官学校があった)を1882年卒業した。

後ほとんど参謀畑を歩み、シュリーフェンと小モルトケに認められ、動員課長をつとめた。その後上司と争いになり会戦時は第2軍(ビューロウ)の参謀だった。リエージュ攻城戦では市内突入の先駆けを行い、一躍勇将としての資質をみせた。

しかしその後の人生どころかドイツの運命を決めたのは、ヒンデンブルグとの出会いだった。ロシアの予想外に早い東プロイセン侵入に、急遽ルーデンドルフとヒンデンブルグが起用された。戦いは偶然の要素からとはいえ、模範的な包囲殲滅による快勝だった。このタンネンベルグ戦で二人はドイツ国民の英雄となった。1916年8月、ヒンデンブルグが参謀総長になるとルーデンドルフは兵站総監となった。しかし実際に参謀本部を牛耳ったのはルーデンドルフだった。

ルーデンドルフは西部戦線で画期的な処置、一時的戦線後退を実施した。そしてより後方の強固な防衛線ヒンデンブルグ・ラインに篭った。この作戦は大成功し、フランス軍はニベル攻勢によりイギリス軍は第3次イープル戦でワナにはまり大損害をうけた。

だが海戦では無差別潜水艦戦の再開を主張1917年4月アメリカの参戦を招くことになる。

ルーデンドルフの攻勢作戦の指導は包囲突破でシュリーフェンの徒として機動戦に力点があった。この点からとくに元軍人からいまだに賞賛されている。だが武田信玄の用兵術と織田信長の銃器使用とを比較して、江戸時代の軍学者がみな武田信玄を尊崇するようなもので、ルーデンドルフの根本にある火器への無理解と内線移動の優位性の無視は決して看過できない。1917年11月アメリカ軍の来援以前に勝負をつけようと攻勢に出ることを決意した。

すなわち1918年3月渾身一擢の大勝負のカイザー戦である。だがルーデンドルフは古いシュリーフェンの残滓を引きずった作戦をたてた。イギリス軍の片翼包囲である。始めは新戦術の採用もあり大突破に成功したが、そのうち反復攻撃に陥り、またしても停滞で終わった。

この失敗のあとルーデンドルフは和戦の間を揺れ動く。ルーデンドルフはもともと東への領土拡大論者だった。ロシア革命による東部戦線の勝利の時点で奇妙な安定策をとる。すなわち現地政権の樹立による安定化よりも軍政施行の道をとった。このため東部戦線に100万人が張り付いたままだった。東を軍政にしたままだと西部戦線が休戦とならねば、最終的な解決にはならない。

このためカイザー戦は機動戦による包囲殲滅=休戦強要を選んだ。ところが攻勢で勝利できないとなると後は連合国に和を乞うしかないと考えた。そして連合国の条件が厳しいとなると一転戦争継続となった。しかし指導部の動揺は同盟国と銃後に波及し、広範囲な厭戦気分となって現れた。

周囲は一転してルーデンドルフを相手にしなくなり1918年10月26日辞任しテロを恐れスウエーデンに亡命した。1919年2月ベルリンに戻り超国家主義者と交わり、1920年3月カップ一揆の際も首謀者を支持したという。1923年にはヒトラーのミュンヘン一揆に参加した。1925年ナチス党(NSDAP)から大統領選に出馬し惨敗した。

その後数年たたずしてヒトラーと対立し、NSDAPとの関係を断った。後妻のマチルダと連名で、「反ユダヤ・反教皇・反ジェズイット・反フリーメーソン」の意味不明な政治的スローガンを叫び続けた。それでもヒトラーの台頭に危機感を抱き、ヒンデンブルグにヒトラーの危険性について意見するが、もはや聞き入られることはなかった。

ルーデンドルフの作戦指導とくに兵力の展開については瞠目に値するし、また下部への権限委譲・新戦術の取り入れ・攻勢タイミングの取り方も優秀だろう。しかしその一段上の外交や国内政治となると全くできなかった。結局シビリアンコントロールの下では優秀な軍人だった可能性はある。

しかし総力戦(政治にたいする作戦の優位を説く=戦勝となれば政治上の問題は全て解決する。)を主張するなど、シビリアンコントロールを最も嫌ったようだ。それでも1918年9月の時点で勝利が不可能なことを悟りそれまでの政敵にすら妥協して、国益を守ろうとした態度は官僚として最後の一線は守ったと評すべきだろう。ただこの時ドイツが勝利は絶望であるにしても1917年末と差はないことも留意すべきだろう。結局米英を敵にまわし日本もその先に構えられては見込みはない。

またルーデンドルフの一連の著作とくに「総力戦論」は、本人が敗軍の将であるにかかわらず、昭和陸軍に大きな影響を与えた。そのなかで最も有名な一節は


「戦争の本質が変化し、政治の本質も変わった以上は政治と戦争指導との関係も変わらざるをえない。クラウゼビッツのたてたすべての理論は、もはや全く廃棄されねばならない。戦争および政治は、ともに国民の生存のためにおこなわれるものであり、そのなかでも戦争は、国民生存意思の最高の表現である。したがって、政治は戦争指導に奉仕すべきものである。」
というものである。

普通に読めば自身の大戦後期の独裁の言い訳にすぎない。また実際あったように勝利の見通しを得られず、休戦を求めるのは外交(=政治)ではないのか。この政治と戦争に上下をつけ自身の行動の合理化をはかるやり方がなぜ日本に影響を与えたのだろか。ちなみにイギリス陸軍ではこの神学的またはドイツ的な政戦論争に興味を示さず、ルーデンドルフ軍事論の旧弊な包囲殲滅理論と機械化の軽視を批判している。

またルーデンドルフは政治を内政を含めて解している。とくに戦争指導の優越を説く際に内政が従属することを主張した。しかしクラウゼビッツの命題は国家間の戦争についていえば外交と戦争の関係に関してが中心だ。一般にクラウゼビッツの論考は長期間かけておりかつ出版を予定しなかったため、繰り返しと矛盾に満ちている。

それが後世の評論家に自由な解釈を許しているといえる。しかし、クラウゼビッツの論理に反対し、だが内政を忍びこませ独裁を論理付けるのは詭弁ではないか。またレーニンは奇妙なことにルーデンドルフを称揚した。このためルーデンドルフの説はある程度レーニン主義者に支持された。このことが昭和陸軍にどう影響したかは、興味のある点だ。

またルーデンドルフは戦争の定義を参謀本部との関係で論じている。すなわち参謀本部が交戦状態にはいったと認識したとき戦争状態にはいったという定義だ。ここには外交の成立と戦争が切断されている。このため大戦中の休戦交渉も戦争行為の一部という考え方だ。根底には戦争を至上とする永続戦争の見方がある。これはヒトラーの社会ダーウィニズムと共通する考え方だが、昆虫が適者生存するのと民族または国民の存続を同一視されてはたまらない。

史実を無視して15年戦争という向きもあるが、平和が普通で戦争が異常なのだ。小国での警察活動による軍事行為と大国間の戦争は悲惨さでは変わらないが量では変わる。ドイツがアルバニアで多国籍軍に加わり警察活動したことが問題ではなくフランスへ侵攻するためにベルギー国境を越えたことが問題なのだ。この両者を一緒にすることはできない。

国家間の戦争が外交交渉と表裏をなすのは当然で、また19世紀の外交は敗戦国民を抹殺するという前提には全くたっていない。私有財産は敵国人のものでも没収に当たり記帳義務があった。いわんや戦場外で軍服を着ず、武器を携行しない民間人を射殺すればそれは殺人で軍法会議にかけられる。

ルーデンドルフの特質はまたドイツとロシアの特質でもあった。すなわち政治家または貴族でなく職業軍人が軍政面を握ったことである。他の大国、英・仏・墺は軍人の人事・賞罰は政治家が掌握していた。そしてこちらの方が君主国であれ共和国であれ当然とされていた。軍人の人事が軍部の内部詮衡で決められるというのは、ルーデンドルフの出現まで考えられたことはなかった。

また、このやり方はボルシェビキの民主集中制と奇妙な一致を示す。両方とも試験とザリガニの這い上がり競争である。そして軍部とか党の政治独裁を唱える点でも一緒である。そして職業軍人とは官僚であり、官僚は自分の得意分野以外を軽蔑しまた無能であり、それを理由として失敗する。

バーデンバーデンの密約

フォシュはルーデンドルフを批判して次ぎのように語っている。

ルーデンドルフとは何物か。優秀なる一参謀将校にすぎない。実際自分の職業についてよく知っているが、士官学校の教官のようなもので軍隊の編成や作戦の立て方に優れるにすぎない。第1次大戦が国の帰趨、いや国家の存亡にかかわるものであり、その遂行のために何より重要なのは国民の愛国心であり精神力であるという国民国家の戦争の理解を欠いていた。1918年のドイツが欠けていたのはそこである。

フォシュの言うエイランが国民国家間の戦争に位置していることがわかる。フォシュはこの戦争が帝国主義戦争のように領土拡大を志向し領土取引により妥協が存在するものと見ていなかった。フォシュをこれを戦前から見抜いていた。一方ルーデンドルフは戦闘で打撃を与えることにより、究極的には妥協できるものと考えていたのではないか。軍事力・人口において劣るフランスにとりドイツへの妥協屈服が何を意味するか、という筋道で考えたことはなかったのだろう。

ルーデンドルフは極めて無趣味な人間でプロイセンの参謀としては珍しく文学に全く興味を示さなかった。それでも1919年2月スェーデンから帰るとすぐ回想録にとりかかった。そして敗戦の原因としたのは背後からの一突き、「匕首伝説」だった。



回想録;Meine Kriegserinnerrungen, Berlin,1920(邦訳:ルーデンドルフ回想録 参謀本部 ?) ;My War Memories、1914-1918,London,1919
自著;Kriegsfuhrung und Politik, Berlin,1922(邦訳:統帥ト政略 参謀本部 ?)
Der totale Krieg, Berlin,1935(邦訳:国家総力戦 野間秀雄訳 三笠書房 1939)
Entgegang auf das amtliche Weissbuch: Vorge-schichte des Waffenstillstandes, Berlin,1919
Urkunde der Obersten Heeresleitung, Berlin,1920
Dupuy, T.N., The Military Lives of Imperial Germany, New York , 1970
Goodspeed, D. J., Ludendorff, London, 1966
Tschuppik, K., Tragedy of a Specialist, London, 1932 

カイザー戦に戻る
総動員に戻る
タンネンベルグ包囲殲滅戦(前編)に戻る
リエージュ攻城戦
最終攻勢(後編)に戻る
人名録に戻る