キッチナー、 ホレーショ
Kitchener、Horatio Herbert
Earl Kitchener of Khartoum

(1850-1916)


イギリスの将軍;開戦時陸軍大臣

公務員の子弟。士官学校卒業後、ただちに殖民地勤務となり、主として中東と北アフリカで活躍した。なかでも1897年エジプト軍司令官としてオムダーマンでマフディ回教徒軍を破った一戦で一躍国民的英雄となった。その功で早くも貴族に列せられている。しかもその戦いの2ヶ月後ファショダでフランス軍を追い払った。

それ以降もスーダン総督、ボーア戦争での副司令官、インド軍司令官を歴任、1914年元帥となった。

開戦と同時に呼び戻され、陸軍大臣となった。しかしこのポストに政治家以外がなるのはイギリスでは異例の処置だった。キッチナーは開戦当初から長期戦を予想した。これは主要国の軍事指導者ではおそらくキッチナー一人ではあるまいか。

そして当初イギリスの戦争指導の大半を背負うことになった。百万陸軍を呼号し国民に兵役志願を呼びかけた。翌年1915年になりガリポリ上陸作戦を実行にうつしたが、作戦は海軍主導のものが失敗し当初の予想と大きく食い違ってしまった。このため兵力の逐次投入という最も悪しき状態に陥った。この失敗の責任をとわれ翌年からは指導力は明らかにかげりを見せ始める。

キッチナーは政治家に信を置いていなかった。と同時に野戦軍の司令官から信頼されているとも言えなかった。あまりにも天才肌のため周囲がキッチナーの言を理解することができなかったのだ。キッチナーの戦争指導の方法は陸軍の作戦が閣僚たちと距離をおき、独立して立案されるという欠陥を露呈した。この文民統制の欠如の修復にイギリスは爾後数年を要している。

キッチナーは1916年6月5日乗船した巡洋艦ハンプシャーが触雷、沈没し艦とともに運命をともにした。ロシアへ使節として行く途中の事故だった。国民からは広範に悼まれたが、政治サークルではそうではなかったと言われる。キッチナーの評はレピントンによるものが一番優れているのではないか。「キッチナーの戦争指導の方法は現代的な合意の政治とは似合わない。また閣僚として優れていたわけでもなく軍の統帥でも失敗が多かった。だがキッチナーは余人をはるかに超えているのは間違いない。当初の戦争指導で果たした貢献を忘れてはならない。キッチナーは荒海に屹立する岩山のようだ」。



Arthur、Sir George、Life of Earl Kitchener London1920
Cassar,H. G.、Kitchener ;Architect of Victory London 1970
Esher, Reginald Viscount, The Tragedy of Lord Kitchener, London 1921
Le Bas, Sir Hedley, The Lord Kitchener Memorial Book, London 1916
Magnus, Sir Philip, Kitchener; Portrait of an Imperialist, London 1958

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