ホフマン、マックス


Hoffmann, Max
(1869-1927)

ドイツの将軍;東部戦線で長く参謀をつとめる

中産階級の出身でヘッセンで生まれた。士官学校卒業後、ロシア畑を歩く。日露戦争に観戦武官として参加。日本側の記録にないが、ホフマンはある日本の将軍に「あのいま占領した高地に行かせろ。もし認めなければ君たちは黄色い皮膚の野蛮人だ。」といった。これにたいし将軍は「あそこは日本兵の血であがなった場所だ。おまえと一緒に分かち合う必要はない。」と答えたと、B.タックマンが記述している。日本側の記録によると、煙台の戦闘時全師団による夜襲を実行したときホフマンが「成功率は20%以下だ」と付言したという。両方の逸話とも性格がでている。

開戦時は中佐にすぎず、第8軍(プリトウィツ)の作戦参謀だった。タンネンベルグの戦いヒンデンブルグルーデンドルフの来る前に部隊配置をある程度済ませていたことで有名だが、これも相当あとで知られた話である。

タンネンベルグ戦でホフマンはレネンカンプが第2軍(サムソノフ)の応援に急行しないことに自信をもっていた。包囲完成直前に、日露戦争で両者は奉天駅頭で殴り合いをしてこの遺恨でレネンカンプはサムソノフを応援しない、とルーデンドルフを説得した。その後戦後に至るも「ワーテルローの戦いがイートンの校庭で決まったとするならば、タンネンベルグの戦勝は奉天駅頭で決まっていた。」と面白おかしく吹聴したという。しかしこれは事実無根の捏造話しで、なぜホフマンがこのストーリーに固執したかが疑問だ。

ルーデンドルフとは参謀本部勤務時代、同じ下宿だった。この縁もあってかルーデンドルフが参謀本部に戻るまで、東部軍の参謀を務めた。それ以降も東部戦線に残り詳細でかつ興味を引く日記を残した。

1917年7月、ケレンスキー攻勢のあとズロチョフで反攻に出て成功させた。

次に歴史に登場するのは、ブレストリトウスクでのトロツキーとの交渉役だった。ホフマンは現状での凍結を前提に宥和的に解決する方針だったがルーデンドルフは強硬策を常に主張した。このため一旦休戦後戦闘が再開され、トロツキーは全面譲歩に追い込まれた。結果がブレストリトウスク条約だった。

ホフマンは8月25日条約の策定にも関与し、1918年末までロシアに滞在した。翌年退役したがその時中将に昇進していた。元来大酒癖があり、戦後すぐ病に倒れた。

自身の記録を除き他人には余り引用されていない。ルーデンドルフの自著にもあまり登場せず、ヒンデンブルグの回想録(Out of My Life)に全く登場しないのが、ホフマンのホフマンたる所以だろう。

その後ベルリンに住み超国家主義政治運動に関係したという。死亡したときの役所の記録は事故死とある。



回想録;The War of Lost Oppotunities, New York, 1925
(ed. Nowak,K.F.),The Truth about Tannenberg (inc. War Diaries and Other Papers), London,1931

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