ヘイグ、 ダグラス
Haig、Douglas
Earl Haig of Bemersyde

(1861-1928)


イギリスの将軍;後半期BEFの司令官をつとめたあまり有能でない軍人

エディンバラの醸造業者の息子。サンドハースト士官学校を卒業騎兵畑を歩む。インドに駐留後キッチナーとともにスーダンのオムダーマン戦に従軍した。1914年開戦とともにフレンチのもとで、BEFの片一方の第1軍団を率いる。第1軍団は内側にいたため、比較的フロンティアの戦いでは交戦することが少なかった。索敵とその準備は能力があるこを示した。ただ味方の所在をつかむのに失敗し、何度か第2軍団(スミスドリアン)の行方を見失っている。

第1次イープル戦は偶然双方が攻勢にでたため錯綜した戦いになったが、防御面で必要な処置は果たした。ところがヘイグは実戦から何も教訓を得ることがなかった。翌年1915年1月改組に伴い、第1軍の司令官となった。ヌフシャペラの小規模な攻勢が失敗した後、4月の第2次イープル戦でドイツ軍の攻勢にまた遭遇した。この時も防御では事前の準備がよく防ぐことが出来た。

ところがこれ以降は1918年3月のカイザー戦まで3年間、BEFは攻勢につぐ攻勢で終始した。もちろん全てヘイグが意図したものではないが、攻勢の目標達成という点では全て失敗した。とくにソンム戦第3次イープル(パッシェンデール)戦での被害は全部で150万人を越え、これは国の骨格を変えるものだった。

1915年12月BEF司令官に就任し、この両戦を指揮するのだが、本国の参謀本部が大陸の作戦では機能せず、作戦の立案もヘイグの責任に帰せられる。編制等についてはむろん首相・陸相の責任だが、ヘイグを抑えられるのは、ロイドジョージだけになってしまった。

ロイドジョージはヘイグの革職を画策するが失敗した。ひとつには妻(ドロシー・クレスピン)がビクトリア女王とアレクサンドラ皇后の二代に仕えた女官で、ジョージX世の支持が厚かったためだといわれる。また、フランス人との関係は全期間を通じて良好だった。もちろん、外国の指揮にBEFを任せるのには反対で、連合国最高司令部の設立には反対した。しかし、偏狭に固執したわけではない。

カイザー戦では始めて前線の崩壊を経験したが、冷静さを失うことはなかった。直前の1918年3月19日前線に訪れたチャーチルに、交渉による和平について意見をきかれ、「英国は条件を高く設定すべきでない。今は軍事力でも政治力でも低くはないが、和平が遅くなればそれを保てなくなる。そして英国の地位はアメリカにとって代わられてしまう。」と答えた。非常な卓見であろう。イギリスの将軍は作戦は拙劣でも自国および自分を客観視する能力は失わない。

その後フォシュの指揮下ではあるが、連合国最終攻勢に参加し、勝利に貢献した。ヘイグは同時代人からも決して有能な軍人とみられていなかった。兵士は苦境にあっても最後の勝利を信じ、また戦場では勇気を発揮せよ、という古いタイプの指揮官で、近代戦では軍人として不適応を引き起こした。

本国軍の総司令官のあと1921年引退した。議会から10万ポンドの功労金が支給された。



Blake,R.(ed.), The Private Papers of Douglas Haig 1914-1918., London, 1952
Boraston, J.H.(ed.),Sir Douglas Haig's Despatches, December 1915 to April 1919., London, 1919 Charteris, J., Field-Marshal Earl Haig, London, 1929
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De Groot, G., Douglas Haig 1861-1928, London, 1986
Dewar, G.A.B., and Boraston, Lt. General J.H., Sir Douglas Haig's Command, London, 1922 (邦訳:ヘーグ元帥の統帥 参謀本部 ?)
Marshal-Cornwall, General Sir James, Haig as Commander, London, 1973
Terrain, J., Douglas Haig; the Educated Soldier, London, 1963
Winter, D., Haig's Command; a Reassesment, London, 1991

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