グレーナー、ウィルヘルム

Groener,Wilhelm
(1867−1939)

ドイツの軍人;休戦時の兵站総監

ウユルテンベルグ、ルードウィクスブルグで中産階級の子弟として生まれた。兵卒からたたきあげて、陸軍大学を首席で卒業した。この時の同期生にゼークトがいて3位だったという。参謀本部勤務後は常にルーデンドルフとライバル関係にたった。この世代から、フリードリッヒ大王の幕下で戦ったユンカーの子孫の血筋より、陸軍大学の成績が幅をきかしだした。そして、グレーナー、ルーデンドルフとシュライヒャーはプロイセン王家に忠誠心が欠けるようにみえる。ドイツでは科挙はうまく機能しないようだ。

小モルトケの下で二人はシュリーフェンプランの改正に取り組んだ。グレーナーは原案通り、右翼を強化することを主張し、ルーデンドルフはフランスの対抗策にあわせ、薄めることを主張した。実際の結果はルーデンドルフの主張が的中した。小モルトケはルーデンドルフ案をとり、ルーデンドルフは動員課長となり、グレーナーは交通課長となった。

開戦後もそのまま鉄道による兵站を担当した。これは、ドイツの初期の戦争努力を支えるほどの成功だった。そのまま食料の戦時補給を担当し、1916年末より始まった、生産への軍事動員体制であるヒンデンブルグ計画の実施責任者となった。この時から社会民主党の指導者に接近したとみられる。ルーデンドルフはこの参謀本部と社会民主党の共同作業に不安を覚え、1917年8月グレーナーを西部戦線の師団長に左遷した。

その後東部戦線に転属となり第1軍団長のあと、ドイツへの食料基地として重要なウクライナの軍事総督となった。しかし西部戦線における連合国最終攻勢の成功は、ルーデンドルフを精神不安に追いこみ、1918年10月末グレーナーがその後任となることを要求した。

グレーナーは直ちに戦線の維持は困難と認識し、休戦申し入れを続行することにした。そして自らの責任で当時のドイツ軍人のあまりやりたがらない、カイザーの退位・社会民主党との強調・敗戦の受諾を実行した。

グレーナーは、個性のない官僚に近く自分の主張を前面に出すことを余りしなかった。軍事のように結果が明白に出る分野でなければもっと活躍したかもしれない。ヒンデンブルグとその後蜜月の関係になるが、ヒンデンブルグはルーデンドルフに対するように心を許したとは見えない。

1919年秋、ゼークトに地位を譲るが、翌年交通省長官に返り咲く。そしてブリューニング政権の下、1928年からは国防長官となり内務長官も兼務した。1932年、参謀本部の代表として振舞っていたシュライヒャーと対立、さらに再婚に際してのスキャンダルが加わり辞任に追い込まれた。

1934年、「長いナイフの夜」事件のさいは国外にいて助かった。その後、ポツダム近郊に住みそこで死亡した。



自伝;Lebens-Erinnerungen: Jugend, Generalstab, Weltkrieg, Potsdam、1957
Groener−Geyer,D., General Groener:Soldat und Staatsmann,Frankfurt/Main1955 
Rakenies,G., Groener Als Erster Generalquartiermeister 1918-1919, n.a.1977

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