フォシュ、フェルディナン

Foch,Ferdinand
(1851-1929)

フランスの将軍;連合国最高司令官
フランス南西部・タルボで弁護士を父として生まれた。1871年の普仏戦争に兵卒として従軍した。1874年理工学院(エコール・ポリテクニック)を卒業砲兵隊の少尉に任官しそのまま陸軍大学に入学した。

1895年から陸軍大学で教官をつとめ、また「戦争の原則」「戦闘の指導」という本を著し、軍事学会に大きな影響を与えた。フォシュの戦争論は実際の戦闘の技術ではなく抽象的な観念に重点が置かれていた。すなわち攻撃精神が勝敗を決定づけるというのである。

Elan Vital (エラン・ビタール)

そしてこの考え方はフランスのプラン17の精神的支柱となった。この計画はフランスの緒戦における失敗の原因となったが、フォシュはこの攻撃精神を捨てることはなかった。

1901年から1907年まではラインの軍人として勤務し1908年に陸軍大学の教導となった。

開戦時はロレーヌ方面の第20軍団長だがマルヌ会戦時は第9軍を率いた。1914年秋、ジョフルの副官となり、その後北部方面軍の司令官に転じた。そこでフォシュはイギリス軍の各階層と良好な関係を築くのに成功した。

ベルダン戦のあとジョフルが祭り上げられるとフォシュも地位を追われた。しかしクレマンソーが首相となると参謀総長に返り咲いた。その後連合国軍最高司令部が設立されると、その最高司令官となった。

カイザー戦で巧みな戦略予備隊の使用によりドイツ軍の鋭鋒を止めたあと、最終攻勢の作戦をねり、広正面での全面攻勢に踏み切り成功させた。ドイツは和平を乞い戦争は終了した。

フォシュの生涯はドイツを敵として打倒することにかけられたといって過言でない。アルザス・ロレーヌを割譲させながら、第1次大戦で、フランスの宥和的態度を一顧だにせず、作戦を優位に進めるだけの目的で祖国に攻込んだことを許すことはできなかった。ヒンデンブルグが戦後和解の手紙を書いても、返事を認めることすらなかった。

フォシュはドイツおよびドイツ人を直接批判した。「フォシュかく語りき」という本によると「ドイツの軍隊には理想がない。真の精神力がない。国民全体にもなかった。あるのはただの物質万能主義で、そして戦争を略奪的営利行為と考えることなどはこのドイツ魂の考えたことだ。」と断言した。これを論難することは易しいが、ある種の真理を含んでいるのではないか。

ドイツ軍に戦争を騎士の行為としてみたり、相互信頼のうえでルールを解釈する傾向に乏しかったのは事実だ。勝つための手段として、全て許されるとしたようだ。フォシュはこのような隣人を危険視した。

休戦時にもドイツの休戦要請を受け入れること自体に反対だった。少なくともライン川まで進出し保障占領を行い、その後ドイツを分裂させ南部とラインラントで分離した国家を作ればよいと考えたようだ。おそらくこの案の方がベルサイユ条約よりむしろ現実的だったかもしれない。ただしこのためには南部のドイツ人とりわけバイエルン人の協力が必要だ。

パリでの講和会議ではラインラントの割譲を要求した。しかしこれは英米の受け入れる所とならなかった。ベルサイユ条約の締結をきくと、「これは平和ではない。20年間の休戦協定にすぎない。」といった。この千里眼的予言はまさしく20年後に適中した。

1918年8月7日、フランス元帥に任命された。

1920年全ての公職から退いた。



回想録;(ed.Commandant Bugnet) Foch Talks, London, 1929
Memoirs of Marshal Foch, London, 1931
自著; Principles of War, London, 1918 (邦訳 戦争の原則 海軍大学校 ?)
Hunter, T., Marshal Foch: A Study in Leadership, Ottawa, 1961
Recouly, R., Marshal Foch; His own Words on Many Subjects, London, 1929
Aston,Major-General Sir George, Biography of the Late Marshal Foch, London, 1929
Hart, L., Foch, The Man of Orleans, London, 1931

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