ファルケンハイン、エーリッヒ フォン

Falkenhayn、Erich von
(1861-1922)


ドイツの将軍;大戦中期の参謀総長

西プロイセンでユンカーの家族に生まれた。生家はその時すでに没落していたが、一応家産はあったとも言われる。若くして清国の士官学校の教官となり、そのまま北清事変に従軍した。

その頃からウィルヘルム二世の信頼が厚く、1913年に中将となり、陸軍大臣となった。マルヌの会戦小モルトケが信を失い、かわりに陸相兼務のまま参謀総長に就任した。

二正面作戦を余儀なくされたドイツの戦略を新しく考える必要があったが、採った方法は持久戦だった。防御を基本とするが、後退はせず奪われた土地は奪い返すという方針で臨んだ。

ファルケンハインは、ドイツ伝統の包囲作戦を時代遅れとみなした。鉄道の発達で逃げる軍を追いきれないと考えた。このため敵が逃げられない地点を選び、そこに集中攻撃をかけ敵の消耗を狙うという戦術にきりかえた。

ゴルリッツ突破戦では最終的にロシア軍をポーランドから追い出し、この目論見は当たった。しかし、その時ヒンデンブルグとルーデンドルフは勝ちに乗じた深追いを主張、対立を深めることになった。

次に西部戦線のベルダンにおいて、フランスを消耗に追い込み、講和を強いるという解決策に出た。だが、これは二つの誤算で失敗した。一つ目はフランス兵があまりにもよく戦った。このため、たしかにフランス軍に打撃を与えたが、自軍も予想を越える被害をうけた。二つ目はブルシロフ攻勢で、東部戦線に大穴があきベルダンに集中できなくなった。

これで、ファルケンハインの参謀総長としての命運はつきた。ヒンデンブルグ−ルーデンドルフにかわられ、自身はルーマニア進攻軍の司令官となった。ここで野戦軍の指揮官としても優れていることを見せつける。わずか3ヶ月で、ルーマニア全土の占領に成功した。

その後、トルコに行きメソポタミア作戦の改正をおこなった。一時リトアニアに駐在した第10軍の司令官となったが、終戦前に退役した。

ファルケンハインは最も早く長期戦の本質をつかんだ将軍の一人だった。ベルダン戦の前提となった消耗戦理論は、当時の装備や編制を前提とすれば、止むを得なかったものかもしれない。しかし、その狙いとした交渉による和平は条件の設定で失敗してしまう。やはり軍人が外交に出てはいけないということかもしれない。



回想録;General Headquarters 1914-16 and Critical Decisions, London, 1919
(邦訳)『独逸最高統帥』参謀本部訳 偕行社 1921

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独墺軍のゴルリッツ突破戦における予備第41軍団の攻撃