エンベル パシャ

Enver Pasha

(1881−1922)

トルコの軍人、政治家
トルコ人を父(オスマン帝国の役人)にマケドニア人を母にイスタンブールで生まれた。

士官学校卒業後陸軍に入隊し、サロニカで青年トルコ党に入党した。1908年青年トルコ党のクーデターに中心人物として参画した。その後駐在武官としてベルリンに滞在、ドイツびいきとなった。1911年リビヤ戦争に従軍、トリポリで戦った。

1912年の第1次バルカン戦争でトルコはバルカン諸国を相手としたが、コンスタンチノープル前面まで攻込まれ、それをエンベルは一隊を指揮し、アドリアノープルまで押し返したと言われる。

1913年1月、エンベルは200名程度を率い、首相官邸で閣議中の陸軍大臣ナジムを自ら射殺した。

この事件の余波がさめやらぬうち第2次バルカン戦争が発生し、今度はブルガリア軍を追いアドリアノープルを奪還した。

1914年4月陸相となり、トルコ(オスマン帝国)がドイツにたって参戦するのに決定的な役割を果たした。大戦中は青年トルコ党のタラート、ジェマルと三頭政治で政権を牛耳った。その中では一番若いが最も影響力があった。

しかしエンベルは優れた革命家ではあるが、よい軍人ではないことをコーカサス戦線で暴露した。1914年冬期コーカサス山中に攻め込んだが、ロシア軍よりも寒さにより大被害を蒙った。結局、血気にはやった中隊程度の先頭にたつ勇気は十分だが、冷静に作戦を練ることはできない性格なのだろう。

エンベルの夢はコーカサスに領土拡大を求めるもので、戦中は一貫してトルコの東部戦線を離れる事がなかった。また親ロシアとみなしたアルメニア人を大量に虐殺した責任者でもある。1916年再度コーカサスに迷い込んだが同じく地形を無視失敗に終わった。その後バクダットでイギリス軍とも戦ったがこれにも成功したとは言えない。

1917年以降サロニカ、地中海戦線に目をむけさせようとするドイツとも良好ではなくなった。休戦に伴い1918年10月陸相を辞職国外に脱出した。その時点でケマルとの対立も決定的になっており、以降修復できなかった。

その後ベルリン、モスクワと逃避行は続いた。ベルリンにいたときゼークトと旧交を暖め、ラッパロ条約の締結を仲介した。エンベルはベルリンとモスクワの間の移動に飛行機を使い何度も事故に遭ったという。アーノルド・ドイッチャーはこの時のエンベルを「モスクワとベルリンをとり結ぶ冒険的なもぐり商人」と決め付けた。しかしこういった見方しかできないイギリス人リベラルが、トルコを反英にしたのではないか。

もぐり商人は金銭以外夢はないが、エンベルはあった。
その夢は中央アジアにまたがる新トルコ帝国だった。この帝国には全てのトルコ語を喋り、回教を信じる人々が包摂されねばならない、と考えていたようだ。1921年12月ケマルの対ギリシャ戦争勝利で帰国の公算を失い、中央アジアに向かう。ここでアフガニスタンにいたジェマルと手を結び、インドに反英・独立運動を引き起こす計画だったようだ。現実的な軍事的計算ができていたとは思えないが、自分の夢が周囲の人間を感動させる自信があったのだろう。

一時は現在のタジキスタン全域に勢力を張るに至ったが最後は1922年8月ウズベキスタンで赤軍と戦い戦死した。遺体は1996年ウズベキスタン政府によりトルコに返還され、現在はイスタンブールに埋葬されているという。

エンベルは眉目秀麗で少なくともゼークトはその人間的魅力に感動している。また美術にも造詣が深く自分でも絵をかいた。また金銭的にも淡白で、ウィルヘルム二世からの祝勝金を国庫に入れたという。事跡とアルメニア人の虐殺がなんとも一致しない。ただし中央アジアのトルコ人は現在でも英雄としているようだ。

(注)トルコ人はケマル・アタチュルクによる家族法改正まで一般に姓をもつことがなかった。エンベルもこれの例外でなく、パシャというのは将軍を意味する敬称である。



山内昌之 『納得しなかった男』エンヴェル・パシャ中東から中央アジアへ 岩波書店 1999 
Ahmed,F.,The Young Turks:the Committee of Union and Progress in Turkish Politics 1908-1914,Oxford,1969
Okay,K., Enver Pasha : Der Grosse Freund Deutschlands, Berlin, 1935