クレマンソー、ジョルジュ

Clemenceau, Georges

(1841-1929)

フランスの政治家;大戦後期戦争完遂を主張した。


アルザスのバンデーに生まれた。医学を志し、アメリカに4年間留学した。1876年参議院議員となり急進主義者のリーダーとして活躍した。とくに、ドレイフュス事件で孤立を恐れずドレイフュス弁護に回った勇気は、当時のフランス政界の雰囲気を考慮すればあらゆる現代政治家と比較して特筆に値する。急進主義と言う名のリベラリズムがいかに強固な意志を必要とするかの見本であり、またその第1次大戦で見せた、ドイツ打倒の不抜の信念と対比して考える必要がある。

公職につくのは遅く1902年元老院入りし1906年首相となった。協商路線を守ったが1909年に内閣は終了した。

開戦時は野党として戦争運営について批判的な立場をとった。そして戦争目的の完遂を唱え、妥協的な和平を拒絶した。

クレマンソーはジョフルの一方的攻勢論には組しなかった。しかし1917年11月再度内閣を組織すると、1918年のカイザー戦で押されたにもかかわらず、断固とした継戦方針を貫いた。あまりの断固たる戦闘意思で猛虎とあだ名された。この時の言は『パリの前で、パリの中で、パリを後にしても戦うぞ』というものだった。

パリ講和会議では対独強硬論とくに多額の賠償支払いを唱えた。1920年選挙に敗れ公職を退くがすでに79才だった。その後、ドイツの分割政策に反対、フォシュと対立、訴訟合戦となったりした。

クレマンソーの最も有名な言は『戦争は将軍に任せておくには重大すぎる』だと思われる。これにたいしイギリスの歴史家A.J.P.テイラーは「戦争は政治家に任せておくには重大すぎる」と反駁した。

最後の元老、パリ講和会議全権特使、西園寺公望はパリ留学時代クレマンソーと下宿が一緒だった。講和会議では旧交を暖めたという。

現在、パリの人々はシャンゼリゼ通りに名前を残す地下鉄クレマンソー駅を降りるたび、自由の尊さとフランスの栄光を想い出すに違いない。



自伝; Grandeurs et Miseres dune Victoire (tr.)Grandeur and Misery of Victory, London, 1930
Bruun, G., Clemenceau, Cambridge,1943
Watson, D.R., Georges Clemenceau : A Political Biography, London,1974

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