カドルナ、ルイジ

Cadorna, Luigi
Field Marshall Count Luigi Cadorna
(1850-1928)


イタリーの将軍;大戦期間中カポレットー戦まで参謀総長をつとめイタリー軍を指揮した。

父親も将軍で軍人家庭に育った。十代から軍人学校にはいり30年間の勤務ののち1898年に少将に補せられた。その後は政治と多少関係したが、一貫して政治家を軽蔑していたようである。

1914年開戦の前参謀総長に就任した。当初は中央同盟に加盟していたからフランスとの対抗を主とした作戦計画の樹立を急いだ。

1915年5月、イタリーが連合国にたち参戦すると、カドルナは大量の兵士の徴募にふみきった。人員に不安はなかったが、装備させることが出来なかった。とくに砲・砲弾の不足が深刻で終戦までそれは続いた。

カドルナは集まった兵士を次々イソンゾ戦線に投入した。カドルナは兵に優しい将軍であったらしく、弾薬など消耗兵器以外の兵站は概ね満足できる水準で、かつ兵を過酷に扱った将校をむしろ配置転換するなどしたため前線兵士の人気は高かった。イタリー兵士の士気が劣ったという証拠はない。むしろ、殆ど間を置かない絶え間ない攻勢が兵士を徐々に疲れさせたのかもしれない。このイソンゾ川の戦いは11次まで続いた。イソンゾ戦の多くはイタリーの攻勢、オーストリアの防御で常にイタリーの被害の方が上回った。

1917年10月突然転機が来た。カポレットー戦である。それまでとは逆にベロウの率いる独墺連合第14軍はカポレットーで突破作戦に出た。戦線は殆ど一瞬に崩壊した。カドルナが営々と努力して得た僅かな地歩は失われ、ピアブ川までの退却を余儀なくされた。そして兵力の過半が失われた。

カポレットー戦失敗のあと、カドルナは即刻の分離和平を主張した。必ずしも決定的と言えない敗北の際しばしば職業軍人の方が、敗北を認めるのに熱心である。これもその一例だろう。英仏首脳は応援の軍を送ることを約束し、その条件としてカドルナの革職を要求した。イタリーは受け入れる他なく、カドルナはディアツに代わられた。カポレットー敗北について、戦後の議会による調査ではカドルナの兵力配置に無理があったとされた。

しかし1924年ムッソリーニによって元帥に補せられた。たぶんムッソリーニは他国と同様に自国でも第1次大戦の英雄が欲しかったのだろう。



回想録; Altre pagine sulla grande guerra, Milan、 1925

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