ビン、ジュリアン

Byng、Julian Hedworth George
Viscount Byng of Vimy
(1862-1935)

イギリスの将軍;後半期に西部戦線に登場、全軍の崩壊を支える。

ビンはイギリスの代表的軍人家系で生まれた。祖父のジョンはワーテルローで活躍した。別のジョンは1757年、提督として戦死している。更に祖先のトマス ウェントワース(ストラトフォード伯爵)は1641年チャールズT世により処刑されている。ビンはボーア戦争で頭角を現し、開戦時は第3騎兵師団の師団長だった。

1915年ガリポリに送られ、スブラ湾に上陸、撤退作戦を指揮した。1916年、西部戦線に戻りカナダ軍団の司令官となり、翌年の唯一成功したキャンペーンのビミーリッジ戦に参加、その占領により勇名をはせた。1918年第3軍司令官として、カイザー戦に直面アミアンを死守した。更に最終攻勢でも常に先頭で戦い、第3軍とカナダ軍団を有名にした。英軍のなかで最も優れた野戦軍司令官ではなかったか。

ビンの第3軍で捕虜となったイギリス兵はドイツ軍の尋問で、ビン=ボーイかと聞かれて驚いたと言われる。1918年にはイギリス軍で最も猛将としてドイツ軍にも知られていたようだ。

戦後はカナダ総督を長くつとめ、死の2年前に元帥に列せられた。

ビンは1925年カナダ総督の在任中、ある政局に巻き込まれた。

きっかけはカナダ首相キング(Mackenzie King)が1925年秋、カナダ総督ビンに議会の解散を求めたことから始まった。キングは単に長い間選挙がなかったことを慮ったようだ。選挙結果はマイエン(Meighen)の率いる保守党が15議席差でキングの自由党に勝利した。しかしキングは労働党と進歩党の支持を得られるとみなし首相に留まった。

1926年6月、キングは保守党に不信任案をつきつけられた。だがキングは議会の解散で臨もうとしビンに許可を求めた。ビンは拒絶した。キングに代わりマイエンが首相となった。その3日後、マイエンは議会の信任投票で自由党に1議席差で敗れた。マイエンはビンに議会の解散を要求した。

ビンは許可した。キングはイギリス本国の植民地主義的強圧策を非難する選挙戦を展開し勝利した。そして再度首相になった。



この政局は尾を引き、1926年の自治領会議で自治領のステイタスに大幅な改善が加えられることになった。

キングはイギリス本国の植民地的発想を非難したが、これは根拠がない。ビンはキングに言われても、本国政府に相談しようとせず独自の判断で解散を拒否した。これは誤った判断だろう。しかし、半年後に反復して選挙など軽々しくやるものではないというビンの気持ちはわからないでもない。

キングはいずれにせよこのビンの誤判断を選挙戦に利用したものであり、よく言えば選挙に長けており、悪く言えば何でも利用する機会主義者ということになる。ともあれ議会制民主主義の中で二大政党が拮抗し弱小政党がキャスチングボートをもつと、制度的欠陥が露呈されることは銘記されねばならない。


Williams,J., Byng of Vimy: General and Governor−General,London,1983

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