ブルシロフ、アレクセイ

Brusilof、Aleksey Alexeevich (Brusilov)
(1853−1926)

ロシアの将軍
疑いなくロシアで最優秀の将軍。そしてその勇気と独創性で帝政ロシア軍人の光彩を歴史にとどめた。

コーカサスのチフリスで生まれた。父も将軍だった。貴族的な環境で育ち、1877年の露土戦争ですでに将校として従軍した。妻はまたストルイピン首相のいとこである。その後サンクトペテルブルグの騎兵士官学校に入り、そしてそこの教官となり1906年まで各種の職種を勤めた。このため奇妙なことに日露戦争に従軍しなかった。

士官学校を退職し少将となり旅団長・師団長を歴任、開戦時には南西軍第8軍の司令官だった。緒戦のガリシアの戦いに参加し、レンベルグ南部の打通に成功した。1915年のゴルリッツ突破戦では退却を余儀なくされたが、プリペット沼沢地南部ルック付近で踵をかえし、逆襲に成功した。

1916年4月南西軍の司令官に就任した。6月から自身の名で知られるブルシロフ攻勢を開始した。この歩兵の新戦術を基軸とし、広正面をとらえる浸透作戦は大成功し、オーストリア軍の骨格を打ち砕いた。しかしこの戦術をロシア大本営は理解することができなかった。

この戦術では広正面に浸透し、敵の第1線部隊を包囲し降伏させられるが、網にもれた部隊と戦略予備隊は生き残る。次の前進はまた新しい跳躍点の設定と広正面での敵が必要になる。つまり野戦軍をとらえられるが不動産の確保は難しい。大本営は両方を求めた。

ブルシロフは西方軍と北西軍の攻勢を待ったが、両軍とも攻勢の要領はわからず、兵をブルシロフにまわしてきた。ブルシロフ攻勢終了後のコーベル戦は西部戦線と同じく、狭正面への反復攻撃となり失敗した。

しかし攻勢の成功は圧倒的で、ルーマニアの参戦ベルダン戦の退潮、イタリーの復調を短期間に達成させ更にオーストリア=ハンガリー二重帝国を事実上崩壊させた。そしてそれだけでなく、この戦いの様相の結果多くの将校はロシアの帝政に疑問を抱くに至った。

二月革命以降、臨時政府のもとで総司令官となり7月攻勢(ケレンスキー攻勢)を準備した。しかし革命の進捗はそれを許さず、コルニロフに職を譲る。

その後、貴族にして最優秀の武官は赤軍の支持にむかう。国への忠誠が第一で、どのような政体かという点は眼中になかったといわれる。赤軍では閲兵長官をつとめるが実戦には参加しなかった。モスクワで死去。



回想録;Memoirs du General Brusilov,Paris,1929 
    ;A soldier’s note book 1914−1918,London,1930

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