ベートマン ホルベーク

Bethmann Hollweg, Theobald von
(1856-1921)

ドイツの首相;ドイツの開戦時の首相
地方公務員の息子。1879年プロイセンの内務省に入省、順調な昇進をかさね1907年第二帝国の内相となった。1909年首相となるが、それ以降は外交に注力するようになった。

外交方針はイギリスと友好関係を深めヨーロッパでのフリーハンドを得ようとした。反面ロシア・フランスとの敵対関係は避けられないという考えだった。このあたりはヒトラーと似ている。しかし両人とも失敗した。

サラェボ事件以降は、まずベルヒトルトを支持し、対セルビア予防戦争に限定して終息させようとした。このためセルビアがベルヒトルトの最後通諜に条件つき受諾で回答したときに致命的な失策をおかした。予防戦争を前提としたためドイツからオーストリアに終息の圧力をかけるのに躊躇した。

おそらくベルヒトルトもコンラートもその圧力を期待した可能性があるが、ドイツから平和の提案をするのは、好ましくないと判断したのだろう。しかしベルヒトルトはこの点では更に強硬だった。

ベートマンはイギリス外相グレイの仲裁を拒絶した。直後ロシアの過小評価という判断の誤りに気づき自のタイミングでオーストリアの譲歩を求め最終外交決着を狙った。しかしこのタイミングも誤りで、周囲は戦争準備を開始していた。

ロシアの総動員下令をみて、観念し戦争準備推進に転換した。これから見れば第1次大戦の開戦責任の相当部分を背負わねばならない。

戦中は参謀本部の独走をおさえることはできなかった。しかしこれはどのヨーロッパ諸国も同一だった。ただ無制限潜水艦戦はアメリカの参戦を招くとして最後まで反対した。これは結果的に正しかった。
1916年まで内心では条件つき和平のチャンスを伺ったが、軍部の現状前線維持方針すなわちベルギーの獲得が障害となりはたせなかった。

1916年夏、ファルケンハイン追い落としに加わった。これも失敗だった。とって代わったルーデンドルフは外交無視または無能にもかかわらず外交をおこなう政府を危険視し始めた。

1917年1月ルーデンドルフは無制限潜水艦戦を強力に主張し、それに反対したベートマンは職には留まったが、最早政府内でも影響力を失った。1917年7月、より軍部の意向に沿う首相を望んだルーデンドルフに追われ、ミハエリスに代わられた。

趣味はピアノ演奏で就寝前にベートーベンのピアノソナタを弾くことが多かったという。



政府刊行; Die Grosse Politik der Europaischen Kabinette 1871−1914 Berlin 1922-1929
回想録;Reflections on the World War, London, 1920

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