ベルヒトルト、レオポルド フォン

Berchtold、Leopold von
Count(Graf) von Berchtold von und zu Ungarschitz, Fratting und Pulitz
(1863-1942)

オーストリア=ハンガリーの外交官;セルビアとの局地戦を計画


チェコ系の貴族でウイーン生まれ、1894年に外務省に入省。5年間駐ロシア大使のあと1912年、外相に就任した。自分自身はとくに望まなかったポストだという。また趣味は競馬のオーナーで相当の財産家だった。また眉目秀麗の呼び声が高くウイーンの社交界の重鎮でもあった。ただ頭ははげていた。

バルカン戦争(第1次、第2次)時は考えが動揺し周囲を混乱させた以外とくに目立った働きはしていない。しかし歴史の皮肉か、開戦時決定的な役割を果たす。

フェルディナンド大公の暗殺をきっかけに、セルビアへの予防戦争を企画した。ドイツの支持を得た後、自ら起草した最後通牒をセルビアにおくりつけた。内容はとてもセルビアが受け入れられないようにして拒絶−開戦を期待した。

そしてセルビアはむしろ条件つきで受諾したにもかかわらず、一方的に外交関係を断絶しさらに、皇帝フランツ・ヨゼフに虚偽を報告し動員−宣戦布告をおこなった。本人はあとで皇帝を偽るはずがないと抗弁しているが、これこそ彼の二枚舌を証明する。

ロシアの介入についてはドイツの支持をもとに、ないと考えた。ニコライ二世とすれば直接介入はできれば避けたいが、なにかオーストリアに姿勢を示したいと考えた。その姿勢が総動員だった。

ドイツは、または小モルトケはロシアの総動員を見て躊躇なくシュリーフェンプランの発動に踏み切った。そして第1次大戦が開始された。

ベルヒトルトは誤算していた。ロシアの介入を避けたい、これだけでは希望にすぎない。そしてその姿勢を威圧で示そうとした。またドイツのシュリーフェンプランや自国の動員計画を理解しなかった。

だが予防戦争または局地戦争を企画したにせよ事態がエスカレートした場合企画そのものを取りやめる勇気は外交官に必要だろう。この男は自分の真の姿を隠し、強く見せたかったのだろう。途中でシュリーフェンプランを知り全面戦争の危険性を察知したのだからやめるチャンスはあったのだ。しかも全面戦争となればオーストリア=ハンガリーの生存が困難となる事は予期しえたはずだ。

大戦争よりは小戦争のほうが良い。ところが小戦争のつもりが大戦争になる。しかし歴史の偶然かこのような小人物がほとんど全人類の鍵を握ったというのはどう解すればよいのだろうか。ベルヒトルトの口癖はDemarche(デマルシェ:フランス語で、外交手段の意味か)だった。この言葉を年中口ずさみ下僚が困惑したという。メッテルニヒの末の後継者として外交に誠意は必要ないと思い込んだのだろう。

開戦後、同盟国であったはずのイタリーとの関係をいじくりまわし、後の敵対関係の一因をなす。1915年1月ティサの建言により更迭された。

その後公職につくことなく回想録の執筆に取り組んだがそれも未完成で終わった。



Bridge,F.R.,From Sadowa to Sarajevo: the Foreign Policy of Austria-Hungary 1866-1914,London,1972

外交に戻る
オーストリアの内側ではに戻る
7月危機に戻る
伊墺交渉に戻る