ベロウ、オットー フォン

Below, Otto von
(1857-1944)

ドイツの将軍;4つの異なる戦線で成功した。

ダンチィヒ(現ポーランド領 グダニスク)生まれ。士官学校卒業後、職業軍人として順調に進級し開戦時中将。初めに第8軍の予備第1軍団を率い、タンネンベルグの戦いすべてに参加。大将に昇格後第8軍の指揮をまかされた。1915年初頭の第2次マスール湖の戦いで勝利した。

その後ロシア戦線にいたが1916年10月バルカン戦線に異動し、自分の名がつけられたベロウ軍を率い、サロニカの連合国軍の反攻を防いだ。

1917年4月西部戦線に異動第6軍の指揮をまかされた。しかし9月にはイタリー戦線に転属し独墺連合の第14軍を指揮した。10月、3年にわたり大きな変動がなかった、イソンゾ川戦線で突破作戦にでた。

攻勢は大成功でイタリー軍に50万人の被害を与え、ピアブ川まで前進した。このカポレットーの戦いは第1次大戦での突破作戦としてもっとも成功したものの一つである。

1918年初頭、再度西部戦線に戻り第17軍司令官としてカイザー戦に参加した。第1次攻勢でイギリス第3軍(ビン)と当たったがこれは成功したとは言えない。しかし撤退戦では早期に離脱に成功した。休戦協定成立後、1919年6月まで名目的な軍団司令官を勤めたが、政治姿勢が民主政府と一致せず、辞任した。連合国は戦犯第1号として裁判にかけることを名指しで主張した。主としてカポレットで致死性の毒ガスを使ったとしてイタリー人が主張したもので、不当であろう。負けた腹いせとしか思えない。

ベロウはカポレットーでは突破に成功したが、防御を得意とする指揮官で兵の損耗に特に意を払った。このため兵から寄せられた信頼は厚かったという。ヒンデンブルグとルーデンドルフの独裁に批判的でユンカーとして皇帝に忠実だったようだ。しかし一方では政治信条としては議会政治の必要も認めており温和な思想だったのかもしれない。形だけドイツ国内で裁かれた。


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