ビーティ、デイビッド

Beatty, David
Earl of Barnes
(1871-1936)

イギリスの提督;ユトランド海戦時の巡洋戦艦部隊の司令官


陸軍将校の子弟として生まれ、13才にして海軍にはいった。その後の昇進は順調で、29才で大佐となった。これは普通40才でなるポストといわれる。スーダンのハルツームの戦いと北清事変に関与し、天津で負傷している。1910年には皇族を除いて最も若い提督となった。

また1900年、エセル・ツリーと結婚した。エセルは百貨店創業者のマーシャル・フィールドの一人娘であり、大金持ちであった。一度、ビーティが艦長のときエンジン故障を起し、査問委員会にかけられた。するとエセルは「何、私のデービッドが軍法会議にかけられるって?それなら私が海軍に艦を1隻買ってあげるわ」といったという。

1912年、人事をめぐって海軍首脳部と争いになった。ただ、当時英海軍を二分したフィシャー・ウィルソンの抗争とは関係なく、単なるビーティの我儘であったようだ。服装についても規定を守らず、軍帽を斜めにかぶるばかりでなく、8つボタンとされる提督服をいつも6つボタンに誂えていた。これはただの見栄であろう。

その頃からチャーチルと親しく、開戦時には連合艦隊の巡洋戦艦部隊の司令長官となった。巡洋戦艦はスピードが速いため、決して積極的でない敵には一番有用だった。ヘリゴランド島沖の海戦とドッガーバンクの海戦を事実上指揮し、イギリスの海の英雄となった。

試練はその後来た。1916年5月、ドイツ外洋艦隊がただ一回姿を現した。ユトランド沖の海戦である。この時、巡洋戦艦部隊を率いて敵艦隊に先行して当たる任務を与えられた。ところがドイツ外洋艦隊司令長官シェールも同じことを考えていた。

まずドイツの巡洋戦艦部隊(ヒッパー)と遭遇した。イギリス巡洋戦艦部隊隊はトン数では有利だったが、ドイツのヒッパーはやや上回る艦隊操縦をみせた。結果はイギリスの方の被害が大きかった。ビーティはこの時、損失に圧倒されることなく敵艦隊主力に殺到した。シェールは後続のイギリス連合艦隊の威容に圧倒され煙幕をはり逃走した。

ビーティはスカパフローの海軍本営に戻ると“There is something wrong with our ships” 「どっか船がおかしい」、それから目を開いて “And something wrong with our system.” 「システムもおかしい」といって、寝てしまったという。

そして外洋艦隊はその後温存策をとりイギリスの海上覇権は揺るがなかった。

1916年末ビーティは連合艦隊の司令長官となった。しかしその後、有力な海戦はない。戦後、海相となり、戦間期のイギリス海軍の基礎を定めた。1921年のワシントン会議にもイギリス代表として参加し、加藤友三郎と度々会談した。

イギリスの最後の「海の英雄」であった。



回想録;The Beatty Papers T,London,1970
Chalmers, Admiral W.S., The Life and Letters of David, Earl Beatty, London, 1951
Roskill, S., Admiral of the Fleet Earl Beatty: The Last Naval Hero, London, 1980

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