バルフォア、アーサー

Balfour, Arthur
Earl of Balfour
(1848-1930)

イギリスの保守党政治家

スコットランドにある家族の領地・イーストロシアンで生まれた。バルフォアは保守党の政治家で、ソールズベリー候の甥にあたる。イートン、ケンブリッジの卒業で1885年下院に初当選した。1885年スコットランド相として初入閣した。1891年には保守党のリーダー格となり蔵相に就任した。ボーア戦争でもタカ派を貫き、1902年首相となった。任期中に日英同盟とフランスとの協商が締結された。

1906年の選挙で保守党が敗れて以来、第1次大戦の開始まで野党のリーダーとして活躍した。第1次大戦中は政府の戦争努力を支持し戦況を政争の具につかうことはしなかった。1915年5月挙国一致内閣の成立とともに海相に就任し、任期中にユトランド海戦に参画した。1916年外相に就任しアメリカの参戦を促した。

そして1917年11月2日に出された有名な宣言でバルフォアの名前はあまねく知られる。バルフォア宣言はパレスチナにユダヤ人の入植を認める内容だが、同時にアラブ人に主権の存在を認め、かつイギリスの植民地としたわけで、イギリス外交の汚点となった。

バルフォアはこの時、ユダヤ人に祖国を与えるべきだとするシオニズムに賛同したわけではなく、欧州にユダヤ人の居場所はなく、新しく植民地としたパレスチナに入植させるべきだと考えたにすぎない。その時そこに住むアラブ人のことをほとんど考えなかっただけだろう。また、当時のパレスチナ(ヨルダン川両岸を含む南シリア)に居住していた人口は80万人を越えず、今日とは比較にならないことは念頭におくべきだろう。人工の力により居住環境を整える必要のある土地だった。

バルフォアは通算54年議員であり続け、そのうち26年間閣僚だった。その業績をあげれば数え切れない。有名なものでも日英同盟、英仏協商、自治領の半独立、参謀本部の設立、これが軍事外交関係で内政でも教育改革やBBCの設立など枚挙にいとまがない。

しかしバルフォアにはこの時期のイギリス人の政治家がもつなにかが欠けている。あまりにも門地がよすぎ、また知的才能に優れていすぎた。イギリス貴族で政治学問両方に才能がある人間は多い。おそらくバルフォアは大学教授でも軍人でも成功しただろう。ただチャーチルにみられる人間の弱さや冒険心がない。個々の業績でも同時代人に失敗とみなされたものはほとんどない。要するにそつがなさすぎるのだ。

戦後の保守党ボールドウィン政権でも上院議長を務め隠然たる影響力を保持した。



Balfour,A.G. Retrospect-unfinished Autobiography, Boston, 1930

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