ウィッテ

Witte、Sergei
1849-1915

ロシアの政治家

ティフリスで生まれた。父方は代々内務官僚で、バルト・ドイツ人家系であった。母方の両親によって育てられ、オデッサのノウロシヤスカヤ大学数学科卒業。

1889年、財務省管轄の鉄道監督に就任。シベリア鉄道建設に関与した。1892年交通・通信大臣代理。1893年、アレクサンダー三世によって財務大臣に任命された。

ニコライ二世が皇位を継承すると、アレクサンダー三世を慕うウィッテとの間に隔意が生じた。よくある旧臣への遺恨である。1905年、シベリア鉄道乗客確保を一義とするウィッテは、重要な期待客であった日本との摩擦解消を主張した。

だが皇帝は賢帝ではなかった。もっとも股肱と頼む海軍が極東制海権の確保=対馬海峡沿いの軍港獲得を熱心に主張するとそれに同調した。スカゲラック海峡やダーダネルスと対馬を同一にみなしたのだ。

ウィッテは猛烈に反対し、東支鉄道や南満線沿いの治安維持、とりわけ日本との対立を避け、朝鮮半島で日本と争わないことを主張した。典型的な財務官僚と軍人の対立であった。大韓内龍岩浦に基地を設営すると日本との緊張が高まった。ウィッテは、その最中、1903年5月、突如解任された。

戦局が悪化すると皇帝は閑職にあったウィッテを呼び返し、ポーツマス講和会議全権に命じた。伊藤博文や山縣有朋と交渉経験があり、日本人からも信頼された人物はウィッテしかいなかった。期待通り、9月ポールマス講和をなしとげると、凱旋帰国、首相に任命された。

第一革命鎮圧のため走り回り、10月には「10月憲法」を起草した。1905年6月、再度突然、解任された。そのあと公職につくことはなかった。ニコライ二世はポーツマス講和条約締結の功績によってウィッテを叙爵したとき、周囲の廷臣に「ヤッコサン、喜んで涙を流してたよ。その程度の人物だ」と言ったという。浩瀚な回想録を残したが、好意をもって接した英仏への非難が多く、1921年発刊されると一挙に西側における同情は消え去った。


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