ウッドロー ウィルソン

Wilson, Thomas Woodrow 
(1856−1924)

アメリカの大統領;アメリカの参戦そしてパリ講和会議を領導

1909年までプリンストン大学学長を務めていた。学長として内紛の絶えなかった大学を改善し政治的な才能を着目された。民主党からの勧めでニュージャージー州知事に立候補、当選しそこでも数々の腐敗追及で有名となった。この間みせた改革への推進、文章・演説の才は1912年の民主党大統領候補に押し上げた。

この年の大統領選挙は共和党が現大統領タフト派と元大統領セオドア・ルーズベルト派に分裂したため、民主党にとり予想外に楽な選挙結果となった。ウィルソンは選挙人435人を獲得する圧勝だったが、(次点は共和党から分離した進歩党をなのるセオドアルーズベルトの88人)民主党は1896年の大統領選に敗れてから政権になく人的基盤は弱かった。

大統領として大戦前に新自由主義を掲げ、累進課税の導入・通貨改革・幼年労働の禁止など現代に通ずる改革を実施した。だが外交ではメキシコ問題が常に解決困難なものとして立ちはだかった。すでに前大統領タフトが軍艦の派遣を実施していたが、選挙で当選したフランシスコマンデロが暗殺されてからは強盗団が割拠する形勢となってしまった。ここでもウィルソンは民族自決を尊重し過度な介入を避けた。しかしこの間、個人的な不幸が襲った。妻のエレンがスラム街の改善などで精力を使い果たし過労で死亡したのだ。ウィルソンは最後までベッドにつきそった。エレンの最後の言葉はスラム街法案の行方を案ずるものだったという。

1916年再選に当たりウィルソンは欧州戦争への不参加を掲げた。そして今度は共和党のヒューズに僅差で勝利した。その後も交戦各国に勝利なき平和を呼びかけたが効なく、ドイツの無制限潜水艦戦の再開とチンメルマンノート事件とにより1917年4月参戦を余儀なくされた。

1918年1月、戦争終結の条件として14ヶ条の提案を出した。奇妙なことにドイツ(議会は除く)も連合国も戦争終結条件を提議したことがなかった。そしてドイツ(ルーデンドルフ)が14ヶ条提案を受諾したことにより休戦が成立することになった。だがパリ講和会議は、勝者・敗者の交渉の場ではなくドイツへの懲罰案検討の場となってしまった。そして更に奇妙なことにドイツが14ヶ条提案を受諾した結果ウィルソンがドイツの代弁者となる事態を招いた。対独最強硬のフランスの言い分が会議をリードした。理想主義または未来へ通用する理念をもちながら、ウィルソンはその実現のための手段を知らずまた策略を用いる人格ではなかった。その後は体調を崩し遊説の負担にたえることができず、上院がベルサイユ条約の批准を拒否するなかで死亡した。

フロイトはウィルソンの一生を非難するが、理想に殉ずる姿勢のまま実現できなかったことを許さないとすれば偏狭ではないか。あるいはフロイトはウィルソンの理想主義を西ヨーロッパ白人至上主義から嫌った可能性がある。

現在ワシントン(D.C.)にあったウィルソン邸は博物館となって一般に公開されている。また食堂やホール・庭を半日単位で借りることもできるようだ。

ワシントンにあるウィルソン邸と食堂



Walworth,A., Woodrow Wilson、3rd ed.NewYork, 1978 
Martin,L.W., Peace without Victory; Woodrow Wilson and British Liberals, New Heaven, 1958
Link, A.S.,Woodrow Wilson and the Progressive Era, 1910-1917, NewYork, 1954

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