シュリーフェン、アルフレッド・フォン

Schlieffen, Alfred von
Graf von Schlieffen
(1833-1913)

ドイツの参謀総長;シュリーフェンプランを立案した。

退役軍人の次男としてベルリンで生まれた。生家は代々伝わるプロイセンの貴族(伯爵)だがすでに没落し、領地はなかった。1861年までに士官学校、陸軍大学を卒業した。普仏戦争と普墺戦争ではいずれも従軍せず、参謀本部勤務だった。すなわちシュリーフェンは生涯を通じて実戦経験がない。これはドイツのこの年齢の将軍としては珍しい。また英仏の将軍の多くはも植民地戦争は経験していた。もちろん実戦経験の有無が個人の作戦計画立案にどの程度影響するかはわからない。

1891年バルデルゼーの後を継いで参謀総長に就任した。この年に露仏同盟の秘密軍事協約が成立した。ただ全てが批准されたのは1894年でこれがシュリーフェンにどの程度影響したかはっきりしない。

そして1904年日露戦争が発生した。この戦争によりロシアの大軍は極東に釘付けにされ、フランスの防衛戦略は危殆に瀕した。そして1905年フランスへの攻勢計画=シュリーフェンプラン(原案)を完成させた。そして翌年シュリーフェンは参謀総長の職を小モルトケに譲った。

小モルトケ

ドイツ参謀本部は以降これを基礎に戦争計画の詳細を更に詰めて行くことになる。そして改変に改変が加えられた。そして遅くとも1909年ごろ露仏二正面作戦に対応する内容を含むようになった。これにシュリーフェンは直接関与したわけではない。参謀本部は戦争計画としてこれしか準備せず、またフランス敗北後の対ロシア攻勢作戦も準備しなかった。

シュリーフェンプラン原案の全てのポイントはフランス野戦軍の殲滅におかれ、その最短時間を達成する手段としてベルギー中立侵犯が予定された。ベルギーの中立侵犯はシュリーフェンの参謀総長就任直後からアイデアとして生まれていた。シュリーフェンはベルギーの中立侵犯が外交上可能かどうか早くから、政治家と外交官に尋ねている。ところが当時のドイツの外交官は、作戦が与件だとしてドイツ軍がベルギー領内に突入した以降どうするかしか、考えないのである。

シュリーフェンの発想にはまた持久戦=塹壕戦への考慮がなかった。これは不思議な点だ。すでにアメリカの南北戦争と日露戦争で塹壕による持久戦は出現していた。ところが普墺戦争と普仏戦争では現れない。すなわち包囲殲滅されずに敵主力が脱出したときまたは前衛部隊にたいし敵が有力な戦略予備を後置した場合すでに発生していた。そして有力な戦略予備でもっとも強力なのは同盟国の軍だろう。とにかく無傷の軍があとで支援に駆けつけるのだから。

もう一つ重要な点は進撃路に敵の出現が予想されていないのである。この場合はフランス軍だが、共通国境から進撃してくるという予測しかない。しかもこれは第1次大戦で的中するのである。だがフランスが不動産に固執して、進撃するドイツ軍右翼にフランス軍が全力を投じたとするなら、ミニカンネーが発生した公算がある。マルネ会戦では遅れたがその形勢となりドイツ軍は最終的に退却した。

当時も議会比較多数派は社会民主党で、戦争絶対反対論者だった。国家は労働者の運動を抑圧する機能が最重要で「労働者に祖国はない」と主張していた。きわめて空想的な国際主義的主張であり、現実的外交課題を分析して判断する勇気に欠けていた。このためドイツには議会政治家が育たず、自らの職掌に閉鎖的に取り組む官僚しかいなかった。シュリーフェンは反対がないことを賛成とうけとった。

それでもシュリーフェンは先駆的な取り組みも実施した。騎兵の縮小・鉄道利用と予備師団の前線使用を考えた。ところが、敵が動員以降部隊移動で鉄道を使うことは考えなかった。シュリーフェンプランが理想的に進んでも、フランス軍が包囲されると察知し鉄道を使い逃亡を試みたら敵地を徒歩で行軍する味方は追いつけない。これは奉天で既に現れたことだ。

このようにシュリーフェンプランはいくつかの重要な仮説にたっており、はずれた場合身動きがとれない。またシュリーフェンプランは総動員・開進・攻勢作戦すべてを含み、開戦後参謀本部は何もすることがないというプロイセンの伝統に忠実だった。

改変は1914年最終案まで64回加えられた。小モルトケはプランの主要点はそのまま受け止め、ただし敵の出方を考慮にいれた。シュリーフェンは右翼に60%の兵力を集中する予定にしたが、それを大幅に薄めた。シュリーフェン(原案)に従えば、中央部でフランス4個軍にドイツは1個軍で戦うことになる。これはタンネンベルグ戦の条件を二倍に悪化させるもので、敗北したときフランス軍にドイツ領を席巻され右翼大兵力は補給を断たれる可能性がある。小モルトケのこの改変をシュリーフェンは喜ばず、新聞紙上で論争を挑んだこともあった。

第1次大戦をみることなく死亡した。最後の言葉は『もっと右翼を強く』だった。またシュリーフェンの名前が生前有名だったとは言えない。第1次大戦でこの名前をもつ計画が実施されて以降である。

一方小モルトケは仮説の多いこの計画を始めから信用していなかったふしがある。右翼の進撃につれて正面にフランス軍が現れ、野戦軍司令官が適宜の判断を行って殲滅すればよい、と考えていたのではないか。実際には右翼が無傷でパリに接近するにしたがい不安も増大した。そして『捕虜は、鹵獲兵器はどこだ』と叫んだのはその証左ではないか。



軍事思想の研究 小山弘健 新泉社 1970

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