フランツァー・バルティン

Karl von Pflanzer-Baltin
Freiherr von Pflanzer-Baltin
(1855-1925)


オートリア=ハンガリーの野戦軍司令官

ハンガリーのペク(フュンフキルヒェン)で生まれた。テレサ士官学校を卒業後、陸軍大学に入り参謀畑を歩んだ。また第12軍団の参謀長、陸軍大学教官なども経験した。

ただ健康に優れず、1914年6月自ら申し出て退役した。その1ヵ月後大戦が勃発直ちに再召集された。10月新編成された第7軍団の司令官となった。第7軍団はハンガリーとクロアチア人によって構成されていたが疑いなく、二重帝国最強の軍団に成長していった。1915年のゴルリッツ突破戦ではカルパチア山脈を突破しブコビナに出る役をこなした。更にその冬のストリパ川の戦いでは3倍のロシア軍を撃退した。

フランツァー・バルティンはこの成功によりガリシア全体を守備する第Z軍の司令官となった。しかしその直後ブルシロフ攻勢に見舞われた。この戦いで第Z軍は完敗したが、少数の残存する兵をもってカルパシア山中で戦いを継続した。

ブルシロフ攻勢によりオーストリア=ハンガリー軍の骨格は打ち砕かれ、以降司令部にもドイツ人将校が入りこむようになった。第Z軍でもゼークトが参謀長に任命された。ゼークトは司令官であるフランツァー・バルティンを無視して命令を出した。当然両者に確執が生まれたが、1916年9月フランツァー・バルティンの方が革職された。これはドイツの大本営の不興を買ったためともされるが、第Z軍の傘下にあったドイツ軍の連隊が抗命したことが大きかったようだ。

病気を理由に退役したが1917年9月再召集され、アルバニア方面軍の司令官となった。1918年7月、アルバニア南部でフランス軍に対し攻勢に出、全アルバニアの占領に成功した。その後反撃されたがカッタロの線で踏みとどまり抗戦を続けた。フランツァー・バルティンは二重帝国の休戦以降も戦いを継続し、停戦に応じたのは1918年11月後半だった。12月3度目の退役を果たし1925年ウィーンで死亡した。最後までハプスブルグ家に忠実だったという。


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