オルランド、ビットリオ

Orland, Vittorio
(1860-1952)

パリ講和会議でイタリーの首相、主席全権

パルメロで生まれた。学究生活をおくり、法学の大学教授をつとめていた。1916年、サランドラ首相に招かれ法務大臣となった。しかし1917年10月カポレットー突破戦の敗北により、内閣は瓦解突然首相に選ばれた。

ピアブ戦線では持久戦法をとり1917年、6月オーストリアの攻勢を食い止めた。

休戦後、パリ講和会議のイタリー全権となったが、アメリカのウィルソンと激しく衝突した。

これはイリデンティズム(未回収のイタリー回復運動)が要求するダルマシア海岸地区の取得がウィルソンの民族自決主義に反するためだった。

ウィルソンは新生サーブ・クロアチア・スロビーン王国のアドリア海主要港の必要性に不可解なまでの理解を示した。

オルランドは係争地における住民投票(市街地のみで選挙をすればイタリー有利だが、後背地を含めるとスロベニアまたはクロアチア有利となる。)などの宥和案に反対し続けたが、中立化以降決定という案までには逆らえず、ベルサイユ条約調印を余儀なくされた。

この結果は議員および選挙民の理解する所とならず、1920年6月退陣した。

1922年のクーデターではムッソリーニを支持したが、ギアコモ・マッテオーニの殺害事件で抗議のため議員を辞職し、ムッソリーニと対立した。その後亡命を余儀なくされたがバドリオ政権成立とともに帰国、保守民主連合の議長となり、イタリー政界に再度影響力を保持した。


パリ講和会議に戻る
フィウメ問題に戻る