モーヌーリ、ミシェル

Maunoury, Michel Joseph
(1847-1923)


マルヌ会戦でフランス第6軍(パリ軍)を指揮、フランス軍の勝利の端緒をつかんだ。

サンシール士官学校を卒業後、長い軍人生活を主として植民地でおくった。1907年退役し引退した。第1次大戦の勃発とともに現役復帰を命ぜられ、急遽編成された、ロレーヌへ突撃しあわせて第3軍の右翼を保護する役目を負ったロレーヌ軍の指揮官となった。

ロレーヌではドイツの第5軍と相対したが、すでにフランス第2軍は後退しており、モーゼル河畔での防御戦となった。この時、ルプレヒトのドイツ第6軍の鋭鋒をよく防いだ。

そして直後、ドイツ軍右翼、第1軍から第3軍の攻勢によりパリが危機に陥ると、新編成された第6軍の司令官となった。この軍は従来のロレーヌ軍の半分、およびアミアンに集結した部隊、アルジェリアから直接パリに来着した部隊の混成だった。この即興の編成を成し遂げたのはジョフルの冷静さだったが、モーヌーリはこの即興による雑軍をよく指揮したと言える。

マルヌ会戦直前の両軍の軍隊区分

この軍はまたパリ軍事総督のガリエニの指揮下にもありパリ軍とも呼ばれた。クルックの旋回を見たガリエニは側面攻撃の好機を逃さず、フランス軍反撃の烽火をあげた。モーヌーリは兵力の小出しを恐れず全軍集結の前に、クルックがパリの抑えとして残置した予備第4軍団にパリから攻撃に出た。

この攻撃を見たクルックは残り全軍を元の配置に後退させモーヌーリの第6軍に対抗しようとした。しかしドイツ第1軍はモーヌーリの攻撃に耐えるのが精一杯で、最早前進が不可能なことは明らかだった。クルックはドイツ軍右翼の戦線が切断される前に後退を決意、退却を命令した。

シュリーフェンプランが失敗に終わる瞬間だった。

モーヌーリはその後も第6軍の司令官に止まったが、1915年砲弾の破片を浴び重傷を負い、再び退役した。


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