牧野 伸顕

Makino Nobuaki
Count Makino
(1861-1949)


パリ講和会議次席全権、伯爵


大久保利通の次男。吉田茂の岳父。1871年、アメリカに留学3年間滞在した。1879年外務省に入省した。イタリー、オーストリア公使歴任ののち西園寺内閣の文部大臣となった。山本内閣で外務大臣。

パリ講和会議では西園寺のたっての推薦により、次席全権を務めた。会議では西園寺が高齢でありかつ英語ができなかったため各種委員会では実質的なリーダーとなった。当時も現在も大差がないが外交官にとり、語学の負担はたいへんなものがあった。これは同情すべきかはわからないが、外交で使用される英・仏語は日常会話とは大差があり、そういった家庭に育つかあとで習熟するかとなる。反面発音などは重要ではない。牧野は後輩がいわば国内試験により採用されたため語学が劣っていたこともカバーしなければならなかった。

この時アメリカ人の登場により、英語が主力の言葉となっていた。ウィルソンロイドジョージは英語しかできないが、クレマンソーは英仏語ができたためである。イギリスの議事録では、瑣末な会議でも牧野の発言しか記入されていない。

牧野の外交官としての活躍はここまでだった。回想録でもそれが終章である。

ただし歴史に影響した以降の活躍も見逃せない。1921年宮内大臣となり1925年から内大臣となった。大正天皇は1912年皇位を継承したが、遅くとも1921年11月に昭和天皇が摂政につかれたとき、病状が悪化していた。

牧野は、昭和天皇の即位まで宮中の庶務を執行しこの重大な局面を乗り切ったようである。

しかし超国家主義者は君側の奸として牧野を付狙った。1935年内大臣を辞し、斎藤実に譲ったが、翌年2・26事件で襲撃を受けた。その後我孫子に隠棲し名目的な職以外は引き受けることがなかった。また当時の常識からみて清貧だったことは評価できる。

そして第1次大戦で活躍した日本の外交官、西園寺・牧野・石井いずれもが昭和軍人の政治運動、近衛の大政翼賛会運動、また広田らの国粋主義的大アジア主義的外交に手を貸さなかった。これはドイツやイタリーの軍人、政治家と比較すれば特筆に値する。



自著:『牧野伸顕回顧録』 全3巻 文芸春秋新社 1949

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