クロパトキン

Kuropatkin, Alexei Nikolaevich
(1848−1925)



ロシアの将軍
クロパトキンはプスコフ県で地方役人の息子として生まれた。父はロシアの人口の1%を占める貴族には違いないが、決して宮廷に昇る身分ではなかった。士官学校に入り、その後1864年パブロフスキー上級士官学校に進んだ。1866年卒業し、第1トルキスタン狙撃兵大隊に少尉として任官した。

そしてボハラ遠征に参加した。その時20歳であるが、軍功は顕著であったのか1871年ニコライ参謀大学に入学が認められた。そして1874年、首席で卒業しその年、フランス軍の観戦武官としてアルジェリアに派遣されている。

1876年スコベレエフ少将の参謀となり、そのまま義勇軍人としてセルビアに派遣された。スコベレエフは「白い将軍」として露土戦争で活躍し、つれてクロパトキンも有名となった。戦争終了前に呼び戻され、参謀大学の教導となった。1879年トルキスタン狙撃兵旅団長に任命され、テケ族の反乱を鎮圧した。そして1882年、若干34歳にして少将に任命された。1883年には参謀本部作戦部長となり、ロシアの戦略の多くを立案したという。

1890年には、トランスカスピ海総督となった。この地位に1898年まで留まった。1899年陸軍大臣に指名された。ロシアでは陸相の地位は参謀総長を上回り、52歳にして軍人の最高位に上りつめたことになる。

1904年日露戦争が勃発すると満州軍総司令官に任命された。当初は海軍大将の極東副王アレクセイエフと地位が競合したが、ロシアの陸軍優位に従って、クロパトキンは野戦軍司令官と軍政官の長の両方を占め、アレクセイエフを召還に追い込んだ。

日露戦争では、奉天会戦で敗軍の将となった。この戦いについて、クロパトキンの指揮の拙さを指摘されることが多いが、奉天会戦は人類史上、それまでの記録(中国の歴史書など相互に確認されていない伝承を除く)を塗り替える最大の陸戦である。果たして当時、機略においてクロパトキンにかわりロシアにこういった戦いを指揮できる人物がいたのか疑わしい。

翌年2月全ての公職を退いて引退した。その後「日本との戦争におけるロシア軍」という名の自叙伝を書いた。1915年9月再役を命じられ、北部方面軍司令官となった。しかし1916年春のナロッチ湖の戦いではドイツ軍に惨敗を喫した。1916年7月、革職されトルキスタン総督となった。1917年二月革命で臨時政府に一時拘留されたが、その後再び引退し郷里のプスコフ県に戻り、小学校の教員となった。そのまま1925年の死の時まで教員生活をおくった。

クロパトキンの軍人としての資質について疑問を投げかける人々が多い。これはとりわけロシア人に顕著である。しかしロシアの戦敗の大部分は何によっているか?それは将領が敵を過小評価することだ。奉天で、ロシア軍が攻勢姿勢を続ければ勝利できたと日本の軍事史家までも得意になっていう。本当だろうか?逃げることにより全滅を避けることも将領の重要な資質である。クロパトキンは日本軍の強さを正しく認識していた数少ないロシアの将軍の一人だった。




自著;(Ger.trans. by Krahmer), Kritische ruckblicke auf den russisch-japanisches Krieg, 1921,Berlin
邦訳;『クロパトキン回顧録』訳参謀本部 偕行社 1910

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