ケーベス

Herman Koevess von Koevesshaza
(1854-1924)


オーストリア=ハンガリー軍の将軍。

トランシルバニアのテメスバール(現ティミショアラ)で生まれた。母はジーベンビュルゲン・ザクセン人でドイツ語が母国語である。父は退役陸軍大佐である。

ハインブルグの陸軍士官学校に入り、そのままウィーンの陸軍大学に進学した。1875年、中尉任官。1882年、南ダルマシアの反乱鎮圧に参加した。1898年には大佐に任官し、連隊長となった。この当時、もっとも若い連隊長であった。

宗教はプロテスタントで、この点でも異例な昇進であった。髭をはやしていないのは皮膚病のためで、特別の許可を皇帝からうけたという。

1912年8月、第12軍団長であったケーベスは、いつも通りヘルマンシュタットの教会にいくと、トランシルバニア総督ホーエンローエ大公の圧政に反対し、ドイツ語を喋る人々400人が集団でプロテストントに改宗する儀式を執行中であった。これを聞きつけて、ホーエンローエ大公は烈火の如く起こり、フェルデナンド大公に注進した。だが皇帝がとりなし事なきを得た。

第一次大戦が勃発すると後輩のベーム=エルモリやダンクルは軍司令官に任命されたが、ケーベスは軍団長に止められた。ヘルマンシュタット事件が響いたのかもしれない。

開戦直後、第12軍団はバルカンからガリシアに転戦した第2軍に属し大被害をうけた。そのあと、ケーベス軍集団に編組され、ゴルリッツ突破戦に参加した。ここではイワンゴルド攻防戦に参加した。マッケンゼンがバルカンに転戦するとそのまま随行し、セルビア討伐戦に参加、ベオグラードに一番乗りした。そのあとモンテネグロを屈服させたのち、アルバニア北半部を占領した。

1916年の南チロル攻勢では第3軍の指揮を任され、アシアゴを占領した。その直後のブルシロフ攻勢により撤退を余儀なくされ、危機に陥ったガリシアに転戦した。だが戦いに利あらず、カルパシア山脈への撤退に追い込まれた。1917年に入ると、ブコビナからに反攻に出て、折からのロシア革命に乗じて、チェルノウィッツの再奪取に成功した。

1917年8月、皇帝カールはチェルノウィッツに行幸して、ケーベスを元帥に任命した。翌年、ブレストリトウスク条約とブカレスト条約が調印されたことにより、ウィーンに凱旋した。翌年、西アルバニア防衛軍の総指揮を任されたが、9月にブルガリアが脱落すると戦線をドナウ河まで下げざるを得なくなった。

その準備のためブタペストに戻る途中、11月11日、全オーストリア=ハンガリー軍総司令官に任命されたが、オーストリアの降伏はその2週間前であった。ドイツのバーデンに総司令部を設け、12月20日まで総司令官に止まった。退役後、ウィーンとブタペストに戻った。1919年5月、ハンガリー白軍から参戦要請を受けたが「政治に興味もなくハンガリー語も喋れない」という理由で断った。

葬儀はブタペストでハンガリーの国葬として執行された。


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