ケマル パシャ
(ムスタファ・アタチュルク)
Kemal Pasha, Mustapha(Ataturk)
(1881-1938)


大戦期間中ガリポリ上陸戦の指揮官、戦後初代トルコ共和国大統領

サロニカで地方公務員の子弟として生まれた。12歳で陸軍中学校に入校、そのまま士官学校に進む。卒業後は必ずしも恵まれたコースではなく、地方の隊付き将校となった。1905年ダマスクス駐留時に革命組織のリーダーとなった。しかし青年トルコ党の運動におされ目だったものではなかった。

1908年青年トルコ党によるクーデターが成功したが、ケマルは青年トルコ党とは一線を画しており、その後はむしろ政治から遠ざかった。1911年から1912年リビヤ戦争に従軍した。

第1次大戦開戦時はブルガリアに駐在武官として派遣されていた。その後エンベルの指導のもとトルコは中央同盟にたって参戦したが、ケマルはこの参戦方針に批判的だったと言われる。1915年5月、イギリス軍を中心とする連合国軍がガリポリ半島に上陸すると、ケマルは戦略予備の師団長に任じられた。

当初、ANZAC軍と対峙したが、一歩も内陸にはいることを許さず、海岸に釘づけにした。ドイツから派遣されたリーマンサンダース総司令官はその巧みな防戦振りに感動し、8月のスブラ湾への第2次上陸以降は前線の総指揮をケマルに任せた。

ケマルは前回同様、イギリス軍を海岸地帯に押し込め縦深陣地を構築し周辺すべての高地を支配した。イギリス軍が12月までに撤退するとケマルの名はトルコ全土に知れ渡った。1916年、エンベルが攻勢に失敗したあと、コーカサス軍の指揮をとった。ここでは攻勢を中止しロシア軍の前進を阻止する方針で臨み、敗軍の頽勢を挽回するのに成功した。

その後イギリス軍が攻勢に出ていた、パレスチナに向かった。ここでもケマルはトルコ軍の後退を止める役割を果たしシリアで防御戦に持ちこんだ。休戦とともに青年トルコ党が退陣すると、信望はケマル一身に集まった。

中近東は休戦とともに大混乱に陥ったが、ケマルはオスマン帝国を改組しアナトリアに住むトルコ人を中心とする国民国家への転換を図った。英仏はアナトリア半島の大分割をセーブル条約で狙ったが、ケマルはアルメニア人独立国およびギリシャの侵攻を阻止し条約を撤回させるのに成功した。

1924年初代大統領に選出され、死亡するまで任期をまっとうした。

ケマルは内政でも近代的諸施策を実施するなど業績に優れたものがある。とくにイスラム法・神官より国法が優先すると言う原理を確立したことにより、この地域のイスラム諸国に比較し現在でもトルコを際立たせるものにしている。また自らトルコ語のローマ字化を考案した教育者でもあった。そして軍人という視点にたてばその塹壕戦での巧みな指揮が目立つ。

第1次大戦が生んだ野戦軍司令官のうち防禦については最も秀でていた将軍ではなかったか。



Armstrong,H.C. Grey Wolf, London,1932
Kinross,P.C., Ataturk: The Rebirth of a Nation, London, 1964
大島直政 ケマル・パシャ伝 新潮社 1984
Ulug Igdemir, Ataturk, Ankara, 1963

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