ホルティ(摂政)

Horthy de Nagybanya, Miklos
(1868-1957)


オーストリア=ハンガリー艦隊司令官

ホルティはハンガリーの大地主の家庭に生まれた。海軍に入り第一次大戦の開戦時にはフランツヨゼフ帝の侍従海軍武官だった。

大戦勃発とともに軽巡ノバラの艦長となり、最前線の第1巡洋艦隊に所属した。再三にわたり英仏伊合同艦隊に挑戦し大胆な艦長としての名声を得た。

そして第1巡洋艦隊司令となり1917年5月オトラント堰を襲撃し英伊合同艦隊を撃破した。ホルティの名声は高まり、1918年3月カッタロで水兵の暴動が起きると少将の身でオーストリア艦隊司令官に抜擢された。第一次大戦の兵士による暴動の多くは食事の不満など物質的なものではなく、指揮のまずさへの批判から起きた。このカッタロ暴動も同じ性格で水兵に信望のある提督ホルティが司令官に指名されると直ちに収拾された。

しかし司令官に指名されるとホルティは、従来の自らの方針を転換し、艦隊温存策をとった。1918年6月陸上の攻勢に合わせ再度オトラント堰襲撃を企てたがこの時はイタリー水雷艇の奇襲にあい、弩級戦艦セントイシュトバーンを喪失した。

1918年11月までホルティはよく艦隊と水兵を掌握し、停戦後も艦隊をザグレブにできたサーブ・クロアチアン・スロビーン国民委員会(SCS;この団体はスロベニア人とクロアチア人の独立主義者を代表した。サーブはクロアチアに住むセルビア人を指す)に委譲した。

しかし艦隊委譲を行なっているさい、母国はルーマニアとチェコにより侵略された。首都ブタペストは大混乱に陥り、共産主義者のベラ=クーンが政権を掌握した。これはオーストリアからの離脱をいち早く叫んだカローリ政権が戦争を乗り切る自信がなく政権を投げ出した反動でもあった。北部はルーマニア軍などに支配され、首都はベラ=クーンによる赤色テロが荒れ狂うなか、ハンガリー国民はホルティの帰還を望んだ。イタリー戦線にいたハンガリー兵とハンガリー人水兵を率いたホルティは1919年11月ブタペスト奪還に成功した。しかしチェコ兵とルーマニア兵による略奪、共産主義者による破壊のあとはすさまじく、また報復に燃える市民はカローリ支持者と共産主義者の多数を街頭で殺害したという。

ホルティは国王のいないまま1920年3月ハンガリー王国の再建を宣言し自ら摂政の地位についた。その後ホルティはハプスブルグ家最後の皇帝カールT世の復辟運動にも反対している。戦間期、ホルティはどちらかと言えば政治の実務には参加せず、旧帝国時代の秩序を回復しようと努めたようである。農業改革にも漸進的な対策をとり成功をおさめた。第二次大戦では、第一次大戦の同盟関係を擬したかヒトラーの戦争に消極的に参加、失われた国土の回復に成功した。しかし政権のナチス関与については批判的だったようだ。

1944年3月摂政を辞任した。しかしゲシュタポの監視下、連合国との分離和平を追及した。8月ソ連と休戦協約を締結したが、10月ゲシュタポに逮捕された。ドイツの再度の敗北とともに釈放されニュールンベルグ裁判では1940年の東欧の情勢について的確な証言を行なった。しかし母国はソ連の占領下におかれ、帰国は不可能で、ポルトガルに亡命した。ホルティは89歳の長命を保ち、同地で死去した。1993年ハンガリーからソ連兵が消え去ると、ホルティの遺骸は直ちに母国ハンガリーに戻され、生地のケンデレス(Kenderes)に埋葬された。


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