フランソワ、ヘルマン フォン
Francois, Hermann von
(1856-1933)


ドイツの将軍

フランソワは東プロイセンの裕福なユンカーの家庭で生まれた。フランソワ一族はフランスにおけるユグノー迫害のときこの地に逃れてきた。当時生地の地名を姓とすることが一般的で、フランスで生まれた一族という程の意味だが、フランソワ自身は元フランス人とは一かけらも考えない生粋のプロイセンユンカーである。

12歳で幼年学校に加わり以降の経歴は全て軍人のものだった。

フランソワの軍人としての才能は第1次大戦東部戦線の緒戦、東プロイセンの戦いで発揮された。まずシュタルペーネンの戦いで第8軍司令官プリトウィッツの命令を無視し第1軍団長として独断で侵攻するロシア軍と私戦を交え勝利した。これは自軍の2倍におよぶ大軍を自分のたてた作戦で友軍の助けを借りず撃破したもので戦史上極めて珍しい。

次の独断専行は、そのプリトウィッツが作戦上の消極性から革職されたあと発揮された。すなわち、ヒンデンブルグルーデンドルフが着任したあとその攻撃命令が機が熟さないとして拒否したことである。これの理由は砲兵隊の未到着だが、実際にはロシア軍第2軍(サムソノフ)を更に引きつける結果となり大成功となった。

フランソワの独断専行がタンネンベルグ大勝利の端緒となったのは疑いなく、これもあまり起きることではない。

フランソワはその後第一次マズール湖の戦いでも活躍した。そして第二次マズール湖の戦いまで、短い間第8軍司令官となった。しかし再度軍団長に戻った。この人事の背景にはルーデンドルフのフランソワに対する恨みのようなものがあるのだろう。

翌年1915年5月、今度は予備第41軍団長としてゴルリッツ突破戦に参加し、この時も突破兵団の長としての活躍をみせた。その後西部戦線に転戦し、ベルダン戦やカイザー戦にも軍団長として参加した。

戦後幾つかの自分の参加した戦闘の評論及び軍事論を著し、それは現在でも第一次大戦の格好の史料となっている。



自著;Marneschlacht und Tannenberg, Berlin, 1920

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