フィシャー、ジャッキー

Fisher, John Arbuthnot
1st Baron of Kilverstone

(1841-1920)

イギリスの提督; ドレッドノートの提唱者

セイロン生まれ。著名な軍人家系の出身者だが、性格はやや異常なところがあったという。海軍兵学校卒業後クリミア戦争に従軍その後、海軍省出仕となった。そのとき首に、「仕事はありませんか」という看板をぶらさげていたという。アロー号戦争とエジプト反乱事件に参加。木造船からドレッドノート、帆船から石油タービンエンジン船、先込め砲から14インチ斉射砲まで経験した唯一の海軍軍人であろう。

1904年、海軍軍令部長に就任し、組織の大改革を実施し、それは第1次大戦の開戦時まで持された。またこの時にドレッドノート級戦艦の建造を提唱し、実行に移した。それは水上艦の建艦史上もっとも画期的、創造的な出来事だった。

戦艦ドレッドノート

1910年退役したが第1次大戦勃発とともに召集され、再度、軍令部長になった。「ハルマゲド論」をひっさげ、ドイツの外洋艦隊と生死を決する艦隊決戦が行われると主張した。このため連合艦隊はスカパフローに集中しドイツの出撃を待つ態勢で臨んだ。だが、ドイツ外洋艦隊は基地から出ようとしなかった。

海軍大臣のチャーチルとは始め良好な関係にあった。しかしダーダネルス作戦を始め支持したものの、海軍作戦が失敗に終わり、主力艦が危機に陥ると絶対反対に転じた。

理由は艦艇の損失が増大すると北海作戦に致命的な影響を与えるというもので、大戦略の考慮にいささか欠けるものだった。この反対のため一時行方不明になるなど方法もよくなく、1915年5月革職された。

最後は必ずしも良好ではないが、世界の海軍史上重要な役割を果たしたといえる。また日露戦争時の海軍大臣山本権兵衛と友人で、山本によれば義兄弟の契りを結んだ仲だと言う。日露戦争以前からイギリス海軍大学に海軍軍人の優先入学枠があり平賀譲などが学んでいるので真実だったのかもしれない。



回顧録; Memories, London, 1919
Fear God and Dread Nought; the Correspondence of Admiral of the Fleet Lord Fisher of Kilverstone, London, 1952-9
Mackay, R.F., Fisher of Kilverstone, Oxford, 1973 

ドレッドノートに戻る
ガリポリ上陸戦に戻る
海の戦いにもどる
人名録に戻る
ドレッドノートはいかに建造されたかに戻る