ダンクル、ビクトル

Viktor Dankl
Graf Dankl von Krasnik
(1854-1941)


オーストリアの将軍
ウィーン出身で大尉までつとめた退役軍人の子息。当時オーストリア領だったロンバルディアのウディネで生まれた。教育は近くのクーステンラントの主邑、トリエステの中等学校でうけた。その後セントポエルテン(St. Poelten)士官学校に入り、1879年マリアテレジア陸軍大学を卒業した。

騎兵畑であるが、同時に参謀職にも長かった。順調に昇進し第1次大戦開戦時はチロル駐在の第14軍団長だった。そして動員と同時に第1軍の司令官に任じられた。

1914年8月23日から25日にかけ、クラスニックの戦いでロシア第4軍を撃破した。これはほぼ同数の不定期遭遇戦であり、これに勝利したことはダンクルの指揮能力を示すとともに、オーストリア軍にとり緒戦の勝利であり士気を高めるのに役だった。

しかし、この勝利は決定的ではなく右翼での敗北そして正面のロシア軍が増強されると形勢は逆転した。9月10日以降はプルゼミスル方面への撤退を余儀なくされた。しかそこでも軍をよくまとめており損害は軽微なままで終了した。

1914年秋季と冬季には主要な戦いに参加しなかった。翌年のゴルリッツ=タウノウ突破戦で功績をあげた。1916年3月南チロル戦線に転属し第11軍の司令官となった。4月南チロルで攻勢に出て、イタリー軍を撃破ロンバルディア平原に突入する勢いを示した。しかしブルシロフ攻勢により、東部戦線のオーストリア軍が崩壊、南チロルから抽出転用を余儀なくされ、攻勢は頓挫した。

1916年6月17日、健康を理由に第11軍司令官を辞した。これはブルシロフ攻勢の直後であり、南チロルでの攻勢打ち切りが不満だったのだろう。一方司令部としてもダンクルが必ずしも従順な司令官ではなかったため、慰撫することはなかった。その後名目的な近衛騎兵連隊長を務め、ハプスブルグ家統治の崩壊とともに退役した。

オーストリア軍のなかで数少ない常勝の将軍であり伯爵に叙されている。1925年マリアテレジア勲章局総裁(退役将校クラブ)に就任した。その後インスブルックに隠棲、インスブルック大学哲学科教授として教壇にたっている。最後までハプスブルグ家への忠節を失わなわずその復辟を主張した。従って反ヒトラー主義者でもあり、1941年の葬儀のさいドイツ国防軍は一切参列することがなかった。現在、インスブルックの目抜き通りにその名が残されている。


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