ウィルヘルム二世時代の外政

マーニャ ベートマン時代の内政策から第2次海軍法に人気があったのはわかるんですが、これは当然、イギリスへの挑戦になりますよね。

別宮 その通りです。イギリスの保守党・自由党ともにドイツとの海軍パリティを喪失してはならないという合意がありました。意外かもしれませんが、日露戦争まで、イギリス海軍の仮想敵は露仏でした。

ドイツはイギリスと露仏の対立を眺める有利な地位にあったのです。イギリスがなぜ露仏と対立したかといえば、植民地をめぐってです。ドイツもまた植民地を得たいという国民的合意があったのですが、それにはイギリスと対立するより協調して、露仏の植民地を横取りするのが手っ取り早いですよね。

マーニャ この当時のドイツの植民地政策は3B政策といわれますね。バクダット・ビザンチン・ベルリンですか?

別宮 これは当時のマスコミが騒いだもので、イギリスの3A政策と対立するが如く煽ったんですね。対立ネタがないと新聞も売れませんから。

3B政策がドイツの政策足りえないのは途中にオーストリア帝国があることから明白です。よく鉄道敷設は植民地政策の証しのようなことがいわれますが、いい加減なもので、実態は何もありません。辛亥革命のスローガンになった程度でしょう。鉄道敷設の目的とは営利以外の何者でもありません。

バクダット鉄道でもっとも利益を得るのはオスマン帝国ですが、こちらはアレッポからメッカまでの巡礼鉄道しか興味がありませんでした。それでドイツが儲からない線路としてアレッポからバクダットまでの敷設権を得たもので、海外投資熱の一つでしょう。

マーニャ それではイギリスも賛成した。

別宮 バスラからバクダット間の鉄道敷設を勧めた上ですね。コンスタンチノープルから2日間、砂漠の中を通りバクダットに行くという人は少ないでしょう。

イギリス人の方がイラクについては詳しいですよね。でもバクダット鉄道がドイツ資本でつくられたことは今では知られていませんよね。朝鮮の釜山から京城(ソウル)の間の京釜鉄道敷設を大日本帝国政府は日露戦争を睨んで民間に熱心に奨めましたが、応じる民間資本がなかったというのもあります。

イギリスは英仏協商がなったあともドイツとの宥和に努めています。1912年にヘーゲリアンのホールデンをベルリンに派遣して海軍で了解に達しようとしました。

マーニャ それでもドイツはイギリスと了解に達することを拒絶した?

別宮 ドイツには国家としての外政策はなかった、といっていいでしょう。タンジール事件は、まったく外務省政策局長ホルスタインの所業でした。同じくボスニア危機(ドイツがロシアに脅しをかけた)は宰相ビューロウ、アガディール事件は外相キダーレンがやったことです。

この3つの事件の特徴はいずれもドイツがイニシアチブをとったことです。こういった事件の背後に、国家の意志や個人の意志を嗅ぎ取りがちです。例えば同時代人の石井菊次郎もこの3つの事件の背後にはカイザーありとしていますが、誤りです。ドイツの場合は議会制民主主義の国とはまったく正反対で、外務省を牛耳った役人が正に当事者でした。超然内閣になると、外務官僚の思いつき外政策が本当に実行されてしまうことが起きます。

この事態は日本の戦間期や田中角栄内閣以降、宮沢内閣までの間、顕著でした。このときの外交官の回想録にはよく「霞ヶ関外交」というとんでもない言葉が出てきます。これこそが、議会政治を無視したキャビネット外交の日本的言い回しです。

マーニャ でも、ホルスタイン以下3人の動機は何だったのでしょうか?

別宮 それは短期的な役人の「私益」です。彼らは国益ではなくて、自分の任期中の成績を上げようとしたんですね。当時のドイツ人はマスコミの上では、反英・反露・反仏でした。

デイリー・テレグラフ事件ではウィルヘルム二世が親英的言辞を吐いたゆえマスコミにたたかれたんですね。当時のドイツ人には唯我独尊的なところがありました。

この3人ともこのことがわかっており、それで気分に迎合して3件の危機を自らつくったんですね。失敗は皇帝のせい、成功は自分のモノというのが君主国における役人の特徴です。

マーニャ 日本でも同じですか?

別宮 戦間期の日本では国民の間に排外的気分はなかったと思います。4・16日米了解案が出されたとき、近衛文麿は「これで国民は平和がきて喜ぶと思う」と発言しています。そのあとの松岡洋右の反対嫌がらせは異常でしょう。

日本の外交官はよりエリート意識が強かったということと、それを抑えられない政治家や軍人が問題でしょう。