軍服のウィトゲンシュタイン

ベラ ウィトゲンシュタインは釈放後ただちにラッセルに会いたがったようですね。

別宮 ウィトゲンシュタインは、1919年8月21日に釈放されました。9ヶ月ほどイタリアに抑留されたことになります。オーストリア=ハンガリーに政治的に愛着をもっていたとは思えません。しかしながら、二重帝国のために戦ったことは認識していました。いったんウィーンの帰ったのですが、その変貌に驚かざるを得なかったと思います。

とにかく、二重帝国から小さな山間部の共和国になりました。そのうえ、ドイツ語を喋る人が多くいた南チロル、チェコのズデーテンや大都市、レンベルグなどのガリシアの大都市、キューステンラントはみな他国領になりました。

友人のエンゲルマンはチェコのオルミュッツに住んでいましたが、もちろんドイツ語しかできません。このためチェコパスポートしか受けられないことを嫌がり、ウィーンに来られない有様でした。

1919年、社民党員を含めてドイツとの統合(アンシュラッセ)を求めたことは自然でした。フランスに拒絶されましたが。

ベラ ラッセルのような人が、ウィトゲンシュタインの哲学者として才能を認めているのですから、様々な大学からの招請要請があったのでしょう。

別宮 もっともウィトゲンシュタインを心配していた姉ヘルミーネは、その小学校教師への職業希望を「いつも木箱のただの蓋を、精密機械でこじあけようとしている」と揶揄しました。

ウィトゲンシュタインは、姉に「お姉さんは、閉切りの窓からしか外をみず、通行人の奇妙な動きを説明できない人間だと思います。そこにどんな嵐が吹きすさんでいるのか、通行人はやっとの思いで立ちすくんでいるのか、わからないのでしょう」と葉書に書いています。

ベラ ウーン、姉の心、弟知らずですね。通行人も家の中に入ればいい話しですよね。

別宮 じつは、父はウィトゲンシュタイン家の全財産を戦前にアメリカに移していたんですね。この結果この時点で、ウィトゲンシュタインは、全オーストリアでもっとも富裕な男になっていたことは確実です。

ところがウィトゲンシュタインは大半の財産を姉のヘレーネとヘルミーネに贈与し、残額を美術発展のために寄贈してしまったのです。これが大戦中の5年間の思考の結果であったことは確実です。つまり、家の財産で暮らすことを潔しとせず、大半の戦友と同じく、無一文の一人で生きていこうとしたのです。

それの証として、ウィーンでも長い間、軍服を着ていました。1919年9月、クントマンガッセにあった教員養成所に30歳の復員兵として入学登録し、ノイバルデッガーガッセのウィトゲンシュタイン家を出て、ウィーンの3区にあるウンテレファイアドクトガッセに間借りしました。