ティルピッツ

マーニャ
でも不思議だと思うのは、外務省の影の権力者ホルシュタインは世界政策に反対でしたが、再保障条約を破棄し、またイギリスとの同盟にも反対しました。これは「フリー・ハンド」を求めての結果ではないでしょうか?

別宮
ドイツ外務省がイギリスとの条約に反対したのは、直接のきっかけが極東における同盟だったせいです。

ホルシュタインは世界政策に反対であり、当然、極東でのプレゼンス増加にも否定的でした。北清事変ではドイツがイニシアチブをとり、共同軍の総司令官を出しましたが、これは結果として役に立ちませんでした。軍隊がスエズ運河を通過しているころ、日本の第5師団が清軍を鎮圧していました。

この状態で、イギリスと中国内における治安維持活動のための同盟を結んだとしても利用されるだけと踏みました。

マーニャ
でも、ホルシュタインは断われば、「フリー・ハンド」に伴う軍備増強は覚悟せねばなりませんね。

別宮
それからがドイツの不思議なところです。1900年の北清事変から顕著なのは、実は陸軍ではなく、海軍の増強です。そして、国内では「世界政策」を実行するためには海軍が必要だと叫ばれました。

マーニャ
でも、ドイツの植民地は全世界に散らばっており、そのうえ資源としても労働力としても無価値だったといわれます。第一次大戦勃発のとき最大の植民地艦隊が膠州湾にあったシュペー艦隊ですから、植民地のために海軍が必要だという説明には無理があったんでは?

別宮
その通りです。ただ、それでもドイツ人は海軍増強に極めて熱心であって、植民地はいわば付け足しのようなものでしょう。

第一にプロイセンは海軍と無縁です。プロイセン王国には、称するに足る海軍はありませんでした。当然、支配層であるユンカーは海軍に興味がなく、また陸軍も興味がないのは当然であり、海軍予算のために陸軍予算が削られるのは我慢できないことでした。

すなわち、海軍とは完全に1871年成立のドイツ帝国の所産です。

マーニャ
ドイツの大西洋側の海岸線は長くありません。そのうえイギリス東海岸の向かいです。もし。大陸に戦争が起きたとして資源を輸入する必要に迫られたとするならば、鍵を握るのはイギリスのはずです。つまり露仏と戦争になっても、イギリスの同盟なり中立が確保されているか否かが重要です。

別宮
その通りです。ところがドイツ外務省は、英仏露が一体となってドイツに向かうことはないとの信念をもっているわけです。一つは、独露の友好関係が維持できること、二つ目には、英仏が協調できるはずがない、という自信です。

極東では、日英同盟を使嗾したのですが、この二つの自信が背景にありました。ところが、ロシアが敗勢になるとフランスはイギリスにあらゆる譲歩をして、協商を成立させました。

マーニャ
イギリスがフランスの要請に応じたのはドイツ海軍力増強があったのでしょうか?

別宮
それはありました。1900年から1905年の間、ドイツがフリーハンドを楽しんだ時代を別名、ビューロウ=ティルピッツ時代ということがあります。

1900年、海相ティルピッツが主唱した海軍10カ年計画が実施にうつさました。1905年、第一次モロッコ事件とポーツマス条約の間です。実は1905年こそが、ヨーロッパの真の外交革命の年であり、その結果は1945年まで持ち越されたのです。