『論理哲学論考』とバートランド・ラッセル

ベラ 『論理哲学論考』の序文にはバートランド・ラッセルとフレーゲへの謝辞が述べられていますが、捕虜期間中、ラッセルとの交信はあったのでしょうか?

別宮 ラッセルは第一次大戦の期間中ひどい目に遭いました。ラッセルは伯爵でもあり、ジョン・ラッセルという首相の孫であり、ケンブリッジ・トリニティ・カレッジの講師です。このとき42歳でしたが、戦争に志願しないことで非難され、また徴兵制に反対し「英米関係に悪影響を及ぼした」という理由で検挙され、6ヶ月間、ブリクストン刑務所に拘留されました。同時に講師職も剥奪されています。

ウィトゲンシュタインは、ラッセルに『論考』が出版される運びとなったことを伝えると、「あなたがまだ生きておられるという便りをもらい何よりもうれしく思っています。できれば論理学についてお手紙をください。早いうちに話すことができれば、と思います」という返事をうけました。そのあとも親しい交際を続けています。

ベラ でもラッセルは平和運動で投獄され、ウィトゲンシュタインは戦争英雄です。あまりにも二人の境遇は違いませんか?それにラッセルの立場は少数派であって、ウィトゲンシュタインは多数派のように思えます。

別宮 収容所にいるということでは同じですけれども。ラッセルは平和主義者です。そして、平和主義者はこのときは少数派でしたが、大戦が終了すると多数派となりました。平和主義者の主張はいつも(自国の)軍縮と宥和外交です。

ラッセルはその先鞭をつけたので、イギリスでは政治思想家として理解されています。でもヒトラーが登場すると同時に、平和主義は破産の道を歩みました。軍縮をやり宥和外交をやってもヒトラーのポーランド侵略は防げませんでした。反面、イギリスが徴兵制を実施し大陸軍を建設し、毅然とした外交をすれば、ポーランド侵略が防げた可能性は否定できません。

仮に防げなかったとしても緒戦の戦局を有利に進めることができたでしょう。

ラッセルは第二次大戦が勃発すると徴兵制に賛成し、戦争遂行側に回りました。この変節を問われると、「ヒトラーを止めるには仕方がない」と答えました。これは明らかな変節です。第2帝政ドイツと第3帝国の差はヒトラーが国家社会主義と反ユダヤというイデオロギーをもっていたか否かであるに過ぎません。

そのうえ、第二次大戦後も性懲りもなくアインシュタインと共同で平和宣言なるものを発しソ連との宥和を説きました。ソ連とヒトラー・ドイツの違いがないことを巧く説明することは不可能であって、第二次大戦のさいのラッセルの説明と矛盾します。

これの背後にはソ連のエージェントが関与していたことが現在までに判明しています。そして、湯川秀樹もこれに賛成し「世界連邦」を主張しました。アイルランドとイギリスが合わさった単位で議会制民主主義が成立しないのに、どうして世界という単位で民主主義が成立するでしょうか?要するに、物理学者や数学者が政治という点で優れた能力をもっているわけではありません。

ベラ ウィトゲンシュタインはラッセルの政治的側面についてどうみていたのでしょうか?

別宮 どうやら軽蔑していたようです。これはラッセルの「処世術」にあたる本についての書物の感想でわかります。『幸福の追求』については吐き気を催し、『私の信じるもの』は決して害のあるものではない、というのが感想でした。