ウィトゲンシュタイン釈放

ベラ ウィトゲンシュタインはカッシーノ収容所の生活はどのようなものだったのですか?

別宮 ウィトゲンシュタインは特別扱いが嫌いですから、小学校の教師となる訓練をうけました。1919年に入っても、イタリア政府はオーストリア人捕虜を人質のように考え、何か交渉材料に使えると思っていたようです。

ベラ 休戦が成立したら捕虜は釈放せねばいけませんよね。

別宮 それはその通りで、また休戦協定違反ですから新生オーストリア政府に捕虜収容代金を請求できませんでした。イタリアは何か交渉材料になると思っていただけで、「何か」についてよくわかっていなかったと思います。

ベラ ラッセルとの連絡もカッシーノにいたときつけたんですね。

別宮 1月にカッシーノに移り、2月にラッセルと連絡がつきました。このときラッセルはカーシントン・マナーにいて、『心の分析』を完成させようとしていました。ウィトゲンシュタインの意見なり感想も欲しかったようですが、連絡は週2回葉書に制限されていました。

ベラ そうするとラッセルは政治運動から執筆に力点が移っていた時期だったんでしょうか?

別宮 ラッセルの学問的業績は相当であり、一方、首相の孫であり貴族です。動けば目立つんですね。ラッセルの平和運動が戦争中力があったとは思えません。ですが投獄されたことは「事件」です。そして戦後は復員兵によって平和運動が盛んになりました。このときラッセルは42歳ですから、引っ張りだこになりました。

不思議なこことにドイツ、イタリアの復員兵は国家主義的になり、イギリス、フランスの復員兵は平和運動を始めました。オーストリアは不可能なほど分割されましたから、復員兵はどちらにも愛想をつかし、社会から逃避する傾向になったともいわれます。

ベラ ウィトゲンシュタインは義務感だけから戦ったので、運命のようなものを甘受する気持ちになったんでしょう。

別宮 ただ、身内は放置することができず、バチカンに手を回して、イタリア政府から釈放させる工作がなされたようです。またラッセルもパリ講和会議のイギリス政府代表団の一人であったケインズに依頼して、釈放をイタリア政府に働きかけました。ところが、ウィトゲンシュタインは両方とも断ってしまうのです。

ベラ 義務の意識で一兵卒として参戦したのですから、特別扱いが嫌だったことは十分理解できます。