出版計画

ベラ 出版計画は頓挫してしまったのですか?

別宮 『論理学論考』は哲学書ですから出版社はしり込みするのは当然です。初めのブラウミュラー社は印刷代と紙代を前払いせよという条件をつけましたが、ウィトゲンシュタインは、

「本を書くことは課題ですが、世間(出版社のこと)はそれを正常な形で受け入れるべきです」といって拒絶しました。

次には『ダ・プレンナー』という文芸雑誌に持ち込みましたが、60ページの哲学論文を掲載することは難しかったようです。

そのうえ、ウィトゲンシュタインは、「この作品は厳密に哲学的であり、同時に文学的ですが、しかしそこにお喋りはありません」と前書きをつけることを要求しました。

当時のオーストリアはインフレが進行しており、印刷代や紙代は検収と支払いを同時に済ませないと、あとで予想もできない高額の支払いの請求を受けることがよくありました。出版社は極めてリスクの高い仕事でしたが、ウィトゲンシュタインは、こういった知識に対して、もっとも関心を払おうとしなかったのです。

ベラ ウィトゲンシュタイン家の資産はオーストリア一といわれていましたから、前渡金支払いを拒否したことと一致しませんね。

別宮 『ダ・プレンナー』から正式に拒絶されたと、出版計画を仲介したフィッカーから受け取ったのは1919年11月18日です。それからは、フィッカーの友人のリルケの紹介でスイスのインゼル社やオットー・ライヒル社にも頼んだようですか、これらからも良い返事は来ませんでした。

このころウィトゲンシュタインは自殺未遂を起こしています。12月、ラッセルはウィトゲンシュタインにオランダのハーグで会わないかと提案しています。ところが、ウィトゲンシュタインは役所の手続き(オーストリアは帝国が崩壊したため、それまでの住民登録制度を社会民主党が一変させた。全ての住民は改めてどこの国籍を選ぶか選択せねばならなかった)と資金調達に時間がかかり、快諾できなかったのです。

ベラ 本当にお金に困っていたのですか?

別宮 それは難しい質問ですよね。亡き父は戦敗を見越して、全財産をアメリカに移しましたが、名義は信託財産にするしかありませんから、ウィトゲンシュタインが左右できるのは、そこからの配当金だけですよね。現在でもウィトゲンシュタイン家はウィーンに名門として残っていますので、本当には困っていなかったというべきでしょう。

ラッセルは12月10日にハーグに着き、ホテルツエ・シュタッテンに宿泊しウィトゲンシュタインを待ちました。このときラッセルは将来の妻ドーラ・ブラックと一緒でしたから、新婚気分であったようです。

ベラ ウィトゲンシュタインは邪魔ですね。

別宮 そりゃそうでしょう。ですが、ウィトゲンシュタインはここでラッセルと1日15時間以上の論理学の論争を仕掛けたといいます。

ベラ 部屋に上がりこんでですか?

別宮 いや、朝の九時にラッセルの部屋のドアをノックして一緒の朝食をとり、それから場所を変えながら話し込んだようです。

ベラ ホテルに普通怒られますよね。

別宮 ラッセルは「私が個人的なことについて話すことができないほど論理学に熱中した」とあとで書いています。『論理学論考』を1行1行追って議論したようなので、時間はいくらあっても足らないでしょう。

「全体としての世界についてどの言明も無意味だ」
「命題によって語られ得ないことは、示され得る」

の二つの命題について論議が白熱したようです。

ベラ でも出版計画はどうなったんですか?

別宮 ラッセルは『論理学論考』の理論を印象的であると認め、難解な部分について解説を書くことを応諾しました。ラッセルは人気作家でしたから、これで出版計画は成功したようにみえました。