レーニンの反戦論

コスモポリタン でもレーニンは終始一貫、戦争に反対しましたよね。

別宮 その通りです。でも、「戦争に反対せよ」ということは戦時においては「自国よ敗北せよ」という意味ですよね。つまりレーニンはロシアよ敗北せよ、と呼びかけていると受け取る人々は多かったはずです。

コスモポリタン その点ではマルクスやレーニンより民族主義的、国家主義的でない印象です。開戦時はどうしていたんでしょうか?

別宮 1914年8月8日、オーストリア領ガリシアのノイマルクト(現在のポーランド領ノウィタルク)で、オーストリア官憲によってレーニンは逮捕されています。このときオーストリアは敵性外国人の一斉検挙を始めており、レーニンはロシア国籍であったためその一環です。

ところがオーストリア社会民主党党首ビクトル・アドラーはレーニンの釈放を要求しました。アドラーの言い分は「レーニンはスパイではなく、必ずや連合国とツアーに対して猛烈な反対宣伝をやるに違いない」というものでした。

オーストリア社民党がすでに戦費歳出法案に賛成していました。

コスモポリタン それでレーニンは釈放されたんですか?

別宮 官憲はアドラーの言い分を認め、旅費込みでスイスに送り込んだんですね。レーニンはすでに高名であって、国際的プロパガンダを期待したんでしょう。

コスモポリタン 効果はあったんですか?

別宮 ロシアでは社会民主党のボルシェビキとメンシェビキともに戦時歳出に反対の意見を表明し、デューマでは決戦投票が行われ結局、否決されました。ところがデューマには歳出について拒否する権限はなく、たんに見解の表明のみでした。

ロシアは未だ絶対王政でしたが、その結果、議会は「なんでも反対」という無責任な態度をとるようになってしまいました。議会未成熟はかえって政党を左傾化させてしまうんですね。

コスモポリタン レーニンが裏で指導したんでしょうね。

別宮 その通りです。じっさいには8月11日、第2インターナショナル議長エミール・バンダーベルデはロシア社民党両派に連合国への戦争協力を依頼しています。このときバンダーベルデがベルギー社民党の代表でもあり、開戦と同時に外相に任命されていました。

それに7月一杯、ペテルブルグにいて両派の周旋に努力していたという経緯もありました。この連絡は末端の労組にも行き渡りましたが、連合国への協力という点で一致できませんでした。

レーニンもすぐバンダーベルデの動きに気づき、あくまで戦争に反対すべきという意見をおくりつづけました。

コスモポリタン さすがですね。

別宮 そう単純でもなくて、レーニンはこの時を一にして、ドイツ社民党が戦争に賛成にまわったことにショックを受けました。いわゆる"Burgfrieden"ですね。ただこれについて改めて反対することはありませんでした。レーニンは最後まで社会民主党に期待し、その分派であるスパルタクス団に期待をかけました。

コスモポリタン それでカウツキーらと宿命的な対立に至ったのですね。

別宮 コミンテルン(第三インターナショナル)は人民戦線まで、各国社民党を不倶戴天の敵としていました。この分裂はドイツのスパルタクス団をみれば、そうみえるのですが、ドイツとロシアを除いては社会民主党は一枚岩で戦争協力に走ったんですね。

プロレタリアの国際連帯よりは、国民的結合のエネルギーが強かったと評せるでしょう。またスパルタクス団のローザ・ルクセンブルグがポーランド人、リープクネヒトがユダヤ人であったためか、国際的連帯で戦争に反対という論理が、受け入れられなかった事情も加わりました。ボルシェビキもユダヤ人の運動であるとドイツでは受け止められたんですね。