背教者カウツキー

コスモポリタン デモクラシーですが、プロレタリア・デモクラシーとブルジョワ・デモクラシーは違うものではないでしょうか。すなわち、プロレタリアが人口の多数を占める以上、プロレタリアの階級利益の上にたつ政治は自動的に多数によるデモクラシーということができると思います。

別宮 デモクラシーとは民主主義と訳され、選挙による議会政治を意味します。そのためには、あくまでも、自由な個人が平等に1票を投じるというのが基本であって、それにはずれれば、やはり啓蒙主義を逸脱しています。

言論の自由がなくて、どうして立候補者の政見が有権者に届くでしょうか?

さらに民主主義では、少数者の意見はある程度尊重されねばならず、また少数者は選挙で勝てば政権を担いうるという保障がなければなりません。

コスモポリタン レーニンは、資本家や搾取家に対しては、プロレタリアを賃金奴隷から解放するための一定期間自由を制約せねばならないといっています。

別宮 そのあと「巨大な多数者に対するデモクラシーと搾取者に対する抑圧、すなわちデモクラシーよりの排斥、これが資本主義より共産主義への移行に際しての、デモクラシーの修正である」(『国家と革命』)と述べています。

この論についてもっとも徹底的な反論を加えたのはカウツキーでしょう。

コスモポリタン レーニンは『背教者カウツキー』を書いていますね。

別宮 カウツキーは「各人に対し平等に参政権と自由を保障することは、デモクラシーに立脚する近代国家の共通の原則である。従って、プロレタリア独裁というマルクスの言葉は、法律的制度としての政体を意味することではなく、一つの状態を意味する。換言すれば、プロレタリアが圧倒的優勢を確保した場合、純粋のデモクラシーの基盤にたって必然的に実現されるであろう所の事実的状態である。すなわち具体的には、プロレタリアが政治の全権を掌握しデモクラティックな方法によって、その欲する所を自由に実行しうるに到った状態を指すのである」(『プロレタリアートの独裁』)と述べ、レーニンのいうデモクラシー=プロレタリア・デモクラシーはデモクラシーの原則によっておらず、マルクスにも反していると説明しています。

コスモポリタン カウツキーの説明ではそれまでの資本主義下における議会政治をそのまま踏襲しろということですよね。

別宮 その通りです。カウツキーはプロレタリア独裁をいう場合においても、デモクラシーの基盤にたって実現されるべきだと考えたんですね。

コスモポリタン カウツキーのいうようにマルクスもそのように考えたとは思われません。