ベートマン・ホルベーク宰相

マーニャ ビューロウはデイリー・テレグラフ事件で、行政権からウィルヘルム二世を排除するのに成功したのですが、翌年失脚というのも辛い話ですね。

別宮 ビューロウはいわば世界政策、すなわち対外膨張主義が売り物でした。世界政策には艦隊を必要とする、とドイツ国民も各政党も信じたんですね。ところが、ドイツ帝国は必要な財源が十分ではありませんでした。

ところが、この当時の財政はいわゆる健全財政主義が主流であって、国債を発行するという考え方をとりませんでした。健全財政をとりわけ急進党などが支持しており、新規直接税を創設すべきだと主張しました。

これの一案が相続税でした。1908年に提案されたときは、わずか2%で具体的税収になるかも疑わしかったんです。このとき同時にイギリスでも相続税がロイド=ジョージによって提案され、こちらの方は自由党の手で議会を通過しています。

ところがドイツではリベラルである進歩党や社会民主党は賛成したものの、残りは全部反対で、けっきょく首相不信任となったんですね。

マーニャ そうなるとまたウィルヘルム二世に首相選任権が与えられるのですね。

別宮 その通りですが、ウィルヘルム二世も人の子ですから、ビューロウを再任する気にはなれなせんよね。

ただ、相続税は偶然の案件で、ビューロウ外交が破綻したと受け止められていたことが響いたと思います。最大のものボスニア危機でしょう。

マーニャ でもボスニア危機はドイツにとって一応成功ですよね。

別宮 1905年のタンジール事件(第一次モロッコ危機)は失敗でしょう。アルジェシラス会議で、ドイツを支持する国はオーストリアしかありませんでした。そして英仏協商と英露協商の成立です。ここにきてヨーロッパにおけるドイツの孤立ははっきりしました。

ビューロウはボスニア危機で外交の失点を取り戻そうとしました。確かにビューロウの動員という脅しはロシアに効いたんですね。同じことはアルジェシラス会議では失敗していますから一見成功のようにみえます。

ただ、ビューロウの目的は脅すことによって、ロシアを英仏から切り離そうとしたんですね。ところが、ロシアは姿勢を固くしてますます英仏に近づきました。これは完全な誤算です。

そのうえ、ユンカーはオーストリアのバルカン政策には反対で、反ポーランド人ということで、ロシアとの協調回復を望んだんですね。

マーニャ ビューロウ自身もそれがわかっていた?

別宮 ウィルヘルム二世に辞表を奉呈するとき「ボスニアには懲り懲りだ」といっていますから、多分わかっていたんでしょう。

マーニャ それでベートマン=ホルベークですか?

別宮 この段階になると、ドイツには行政権力不在といっていいと思います。ベートマンの希望は「イギリスとの協調回復」でした。でもやったことはアガディール事件や海軍軍縮拒否でした。

ベートマン自身は、ビスマルク以降の宰相でもっとも教養溢れる人物であったでしょう。ただ、時代がもっとも不適格な人物を選んでしまったといえるかもしれません。