ビューロウ=ティルピッツ時代

マーニャ でも、英仏協商が成立すれば、ドイツ包囲になることは子供にもわかることですよね。

別宮 それは、ビューロウの"Welt Politik"「世界政策」の問題ですね。この言葉自体、ビューロウがいい始めたものですが、ドイツ語のポリティーク というのは、英語の"Politics"とやや意味が違います。

ドイツ語のポリティークというのは、統合した内外政策程度の意味です。ところが、英語のポリティクスは、日本語の「政治」に似て、政治家になったとき、やらねばならないさまざまな仕事という雰囲気であって、ほとんど内政に傾きます。当然、派閥の駆け引きなども含まれます。これはドイツ語に含まれません。

ですから、他国人は"World Politics"なり「世界政策」と聞くと身構えてしまいます。当然連想されるのは、植民地の取り合いにおける「政治」です。

マーニャ すると、他国の反発を覚悟する積もりだったのでしょうか?またホルシュタインなどの職業外交官は「世界政策」に反対のようでしたが、ドイツ国民はどう反応したのでしょうか?

別宮 一般的には熱心に賛成したといってよいでしょう。当時、ドイツの一人当たりGNPは、イギリス・フランスの三分の二でした。その結果、ドイツの軍事支出は人口はほぼ同じであったため、英仏の三分の一、ロシアの半分にすぎませんでした。

それだけ、ドイツは貧しかったのですが、人口は増え続けました。ですが、1939年になるとドイツの人口はフランスの2倍、軍事支出は3倍だったといわれます。

1890年代になってもドイツ人口の北米や南米流出は続き、国民は植民地を得れば、人口爆発のはけ口になると夢想しました。

マーニャ じっさいにはドイツの獲得した植民地は熱帯ばかりですから、はけ口にはなりませんでした。

別宮 ただ、職業外交官の問題かもしれませんが、外交官は「口」で植民地を獲得しようとします。これは不可能です。当然、軍事力または軍事力による脅迫でしか植民地は獲得できません。 

1897年、山東省に中緯度地帯として初めて植民地=租借地を得ましたが、英露の抵抗をみて、それ以上は挫折しました。そして、バクダット鉄道構想を発表すると、ロシアと国内から抵抗にあいます。当時、ドイツで鉄道事業に出資する人間はいませんでした。このため、イギリスに出資を含む話し合いを求める仕儀になりました。

マーニャ 軍事力という点でも不足でしたか?

別宮 それは海軍を意味すると思います。ビューロウはそれでティルピッツを組み建艦政策を実行に移しました。でも、当時の軍艦は石炭推進です。石炭推進の艦は石油推進に比べて、五分の一程度しか航続距離がありません。

このため遠くの植民地にいくためには、要路に石炭貯蔵所が必要です。これがためイギリスはインドまでの石炭貯蔵地点を全て植民地にしてしまったのです。ドイツにこれはできません。

その結果、ドイツは北海沿岸に戦艦を碇泊させました。すると、仮想敵はイギリスでしかありません。

マーニャ ということはビュ−ロウ=ティルピッツの建艦政策が英仏協商につながったということでしょうか?

別宮 その通りです。ビューロウの世界政策とは場当たり的なもので、じっさいに有力国の抵抗にあえば、すぐひっこめるものでした。それであれば他国は脅威に感じません。でも、向いに軍艦を並べられるとそうはいかないのです。